[田舎 中編]
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なにも足に触れるはずのない水深で、「なにか」に触ってしまったら……
そう思うと、いてもたってもいられず、水から出たくなる。
まして今、川の真ん中に誰のものともつかない土気色をした「手」が突き出てい
るのが見えている状況では、とても無理だ。
「手」に気がついた時にはかなりドキッとしたが、その脈絡のなさに自分でもどう
反応していいのかわからない感じで、とりあえず深呼吸をした。
師匠たちの泳いでいる場所からさらに下流。岩肌の斜面から覆いかぶさるような藪
が突き出ていて、その影が落ちているあたり。
どう見ても人間の手に見えるそれが、二の腕から上を水面に出して、なにかを掴も
うとするように手のひらを広げている。
師匠たちは気づいていない。
俺は眼鏡をそろそろとずらしてみる。
ぼやけていく視界の中で、その「手」だけが輪郭を保っていた。
ああ、やっぱりと、思う。
そこに質量を持って存在する物体であるなら、裸眼で見ると他の景色と同じように
ぼやけるはずなのだ。
この世のものではないモノを見分ける方法として師匠に習ったのだったが、俺は夢
から覚めるための技術として似たようなことをしていたので、わりと抵抗なく受
け入れられた。
悪夢を見てしまうとほっぺたをつねって目を覚ます、なんていうやり方が効かなく
なってきた中学生のころ、俺は「夢なんてしょせん、俺の脳味噌が作り出した世界
だ」という醒めた思考のもとに、その脳味噌が処理しきれないことをしてやれば夢
はそこで終わると考えた。
夢から覚めたいと思ったら、本を探すのだ。
もしくは新聞でもいい。
とにかく、俺が知るはずのないものを見ること。そして、そこに書いてある情報
量がページを構成するのに足りないことを確認し、「ざまあみろ脳味噌」と嗤う。
本質からして都合よくできている夢なのだから、「本を読もう」とすると、それな
りに本っぽいつくりになっているかも知れない。しかし、中身は無理なのだ。世
界を否定したくて文章を読んでいる俺と、世界を成り立たせるために一瞬で構築
される文章、その二つを同時に行うには脳の処理速度が絶対に追いつかない。
そして、化けの皮が剥がれたように夢が壊れていく。
そうして目を覚ますのは俺の快感でもあった。
それと同じことが、この眼鏡をずらす手法にも言える。
仮に途方もなくリアルな生首の幻覚を見たとして、ああ、これは現実だろうかと
考えたとき、眼鏡をずらしてみる。すると、現実には存在しない生首だけは、ぼ
やけていく世界から取り残されたように、くっきりと浮かび上がってくる。もし
脳のなんらかの作用で、「眼鏡をずらしたら生首もぼやける」という潜在的な認
識のもとに生首もぼやけて見えたとしても、それは「その距離であればこのくら
いぼやける」という正確な姿を示さない。必ず他の景色とは「ぼやけ具合」が食
い違って見える。それが一瞬で様々な処理をしなくてはならない脳味噌の限界な
のだと思う。
だが、幻覚はまた、夢とも違う。
ああ、コイツは幻だと気づいたところで、消えてくれるものと消えないものとが
あるのだ。
「うおっ」
という声があがり、CoCoさんとぶつかりそうになった師匠が立ち泳ぎに切り替える。
続く