[田舎 中編]
前頁
紐はわずかに揺れていて、外から光の射す障子の白い紙も微かに振動していた。
こぼれたお茶の雫を京介さんが指で掬い、じっと見つめている。俺はどうやらただ
の微弱な地震らしいと思ってなお、得体の知れない胸騒ぎがした。
揺れが収まってから先生はゆっくりと口を開く。
「いね」
え? と問い返す師匠に、「帰れ、という方言です」と耳打ちする。
「それは、この地を去るほかないということですか」
師匠は急に立ち上がり、障子に近づくと骨に手をかける。サーッと木が擦れる心地
よい音とともに、眩しい光が飛び込んできた。
縁側の向こうでは、庭につくられた垣根の中で鶏が地面をついばんでいる。
その様子を見ながら、師匠がボソっと言った。
「全然騒ぎませんでしたね」
さっきの地震のことを言っているのだと気づくまで、少しかかった。
確かに鶏の騒ぐ音はしなかった。
「なんとかなりませんか」
師匠の言葉に、先生は首を横に振るだけだった。
ユキオはよくわからないままにオロオロしているように見えた。
「どうも僕はここではやたら嫌われてるみたいだなあ。フィールドワークのために
郷土史研究家だとか民俗学の研究者が訪ねてくることだってあるでしょうに。そん
な部外者もみんな追い返すんですか」
「人じゃのうて魔物がやってくりゃあ、つぶてで追い払うががつねじゃ」
魔物と来たよ。
師匠は声になるかならぬかという小声で足元にこぼし、また顔を上げた。
「魔物と言えば、いざなぎ流では目に見えない魔物を儀式に引っ張り出すために
"幣"という紙細工を作るそうですね。魔群というんですか。川ミサキだとか、水
神めんたつだとか、蛇おんたつだとか。神様を模したものも多いようですが。それ
ぞれに決まった形の幣があって、切り方・折り方は師匠から弟子へ御幣集という
形で伝えられると聞きました。ある資料で何点か挿絵を見たことがあります。ヤ
ツラオだとかクツラオだとか、おどろおどろしい怪物も幣になってしまえば随分
可愛らしくなってしまうと思いました。……ところで」
師匠は障子を閉め、一瞬室内が暗くなる。
「犬神の幣がないのはどうしてですか」
誰の気配ともしれない、ハッとした空気が漂う。俺は固唾を飲んで師匠を見ている。
「どの資料を見ても出てこないんですよ。犬神を象った幣が。たまたまかも知れな
い。あるいは見落としかも知れない。でもどこか引っかかるんです。犬神は深く
土地に食い込んだ魔物で、四国の各地に隠然と広がっている。いざなぎ流によっ
て祓われる対象として、どうしてもっと目立っていないんでしょうか」
先生は師匠の視線を逸らすように天を仰ぎ、深く溜息をついた。
そしてそれきり目を閉じて、なにも言葉を発しようとしなかった。
「わかりました。いにますよ」
いにますって、使い方合ってるよね。
師匠は俺にそう言うと、先生に向かって頭を下げ、止める間もなく部屋から出て行
ってしまった。
残された俺たちもいたたまれない雰囲気になって、腰を上げざるを得なかった。
出されたお茶に誰ひとり手もつけないままに退散する羽目になるとは思わなかった。
と、俺の隣で京介さんが目の前の湯飲みに手を伸ばし、一気に飲み干した。
帰れと言われた去り際にそんなことをするなんて、少し京介さんのイメージとはズ
レがあり、奇妙な行動に思えた。
すると立ち上がりざま、俺にだけ聞こえる声でこうささやくのだ。
「貸してるタリスマンは持ってきたか」
かぶりを振ると、独り言のように「気をつけろよ」と言って部屋から出て行った。
俺はなにか予感のようなものに襲われて、自分の前に置かれた湯飲みを掴んだ。
冷たかった。
思わず手を離す。
出された時は確かに湯気が出ていた。間違いない。
あれからほんのわずかしか時間は経っていないというのに。一瞬のうちに熱を奪わ
れたかのように、湯飲みの中のお茶は冷えきっていた。
まるで汲み上げたばかりの井戸水のように。