[田舎 中編]
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ユキオが原付に乗ってやって来たのは、朝の10時過ぎだった。
「おー、リュウ。お出迎えとは珍しいにゃあ」
そう言いながら、軒先に座っているリュウの頭を撫でた。俺も朝方、飯を食べに
ノソノソと犬小屋から這い出てきたリュウの顔をじっくりと観察したが、記憶のヴェ
ールは「自信ないけど、リュウらしい」という程度にしか、真実に近寄らせてくれ
なかった。
「じゃあさっそく行こう」
ユキオが原付で先導し、俺たちは師匠の運転で伯父に借りた車に乗ってついていった。
最初京介さんが運転席に乗ろうとすると、師匠が「初心者マークは大人しく後ろに乗
ってろ」というようなことを言って、「そっちも大した腕じゃないくせに」と言い返
され、険悪なムードになりかけたことを言い添えておく。
ユキオの「先生」は、本当に学校の先生だったらしい。ユキオは小学校の頃に教わった
ことがあるそうだ。定年になり、子供たちが独り立ちすると山奥に土地を買って住ま
いを構えて奥さんと二人で暮らしているとのことだった。
「こんな田舎で公務員なんてやってると、デントーってのを守る義務から逃げれんが
 よ」
出掛けにユキオはそう言ったが、神楽を習っていること自体はまんざら嫌でもない様
子だった。
「先生はちょっと気難しいき、変なこと言うても気ぃ悪うせんとって下さい」
俺は幼い頃に見た白装束の太夫さんの神秘的な横顔を姿を思い浮かべた。
車は一度国道に出てから川沿いを走り、再び山側へ折れるとそこからは延々と山道を
上って行った。
道は悪く、割れた岩のかけらのようなものがアスファルトの上のそこかしこに転がっ
ている。

「これって落石じゃないのか」と師匠はぶつぶつ言いながらも慎重に石を避けていく。
昨日より幾分日差しは穏やかで、車の窓を開けると風が入ってちょうどいい涼しさだ。
山の斜面に蛇の黒い胴体を見た気がして身を乗り出した時、後部座席のCoCoさんが
ふいに口を開いた。
「バイクから、離れない方がいい」
さっきまで隣の京介さんを意味なくくすぐって騒いでいたのに、一変して真剣な響
きの声だったので思わず前方に視線をうつす。
ユキオを見失いそうになっているのかと思ったが、適度な距離を保ったまま車はつ
いていけている。
どういう意味だったのだろうとCoCoさんの方を振り返ろうとした時、不思議なこと
が起こった。
ユキオの原付が加速した様子もないのにスルスルと先へ先へと遠ざかって行くのだ。
坂道でこっちの車の速度が落ちたのかと一瞬思ったが、そうではない。速度メー
ターは同じ位置を指したままだ。
何が起こっているのか理解できないうちに車は原付から離され、ユキオの白いヘル
メットはこちらを振り向きもしないで曲がりくねる山道の奥へと消えて行こうとし
ていた。
「アクセル」
京介さんが鋭く言ったが、師匠は「踏んでる」とだけ答えて真剣に正面を見据えて
いる。
こちらが遅くなったわけでも、原付が早くなったわけでもない。俺の目には道が伸
びていっているように見えた。
周囲を見回すが、同じような山中の景色が繰り返されるだけで、一体どこが「歪ん
で」いるのかわからない。

続く