[鋏]
前頁
迷うような素振りを一瞬見せたあと、音響は囁くような声でこう言った。
「みぎはし」
そして向き直ると逃げるような早足で店の自動ドアから出て行った。
暗闇に溶けていくように消えたその姿をしばらく目で追っていたが、やがてテーブル
の上のふたつのグラスと破られたコースターの残骸に視線が落ちる。
その欠片を手に取って、なんとはなしに眺めていると不思議なことに気がついた。
指で裂かれた白いコースターは、その裂け目に紙の繊維がほつれたような跡が残っ
ている。ところがその破片のうち、いくつかの断片に綺麗に切り取られたような痕
跡が見つかった。
まるで鋭利な刃物で裁断されたような跡が。
さっきのコースターを裂いた、まるで夢遊病のような彼女の行動が、これを隠すため
だったかのような気がしてくる。
渡されたノートのページを光にかざすと、彼女の描いた赤いハサミのイラストが、
やけに禍々しく見えた。
二日後、俺は懐中電灯を片手に真夜中の山中を歩いていた。
バイトも休みだったので昼間のうちに下見をするつもりだったのだが、暇つぶしの
つもりで入ったパチンコ屋で高設定のパチスロ台に座ってしまったらしく止めるに
止められなくなり、まあいいやなんとかなるだろうと、これまで犯してきた学生と
しての過ちから全く何も学んでいないような頭の悪い判断をして、夜に至ってしま
っていたのだ。
もう出始めた蚊にイライラしながらも、ポケットに忍ばせたノートの切れ端の地図
を何度も確認しつつソロソロと歩を進めた。
街から少し離れただけなのに、まるで別世界のような気味の悪さだ。
すでに人の世界ではない。
ほんとすいません、と一体何にあやまっているのか自分でも分からないまま頭の中で
繰り返している。
ガサガサと草むらが音を立てるたび、うそだろと思い、山鳩の泣き声がどこからと
もなく響くとまるで自分が通ることへの合図のような被害妄想に駆られて、たのむ
から見逃してくれと思うのだった。
まったく、格好をつける必要がどこにあったのだろうか。
自分のバカさ加減にうんざりする。
懐中電灯の白い光が大きな木の中腹に刻み付けられた矢印を照らし出し、確実に目
的地に近づいていることが分かる。
また山鳩の声がホウホウと聞こえ、同時にかすかな羽ばたきを耳にした。
湿気を含んだ濃密な空気に胸が詰まりそうになる。
思えばこうしてひとりで真夜中に心霊スポットに行くなんて、ほとんどないこと
だ。たいてい、くだんのオカルト道の師匠と一緒だった。彼はその心霊スポットの
本来のスペック以上のものを引き出す実に迷惑な存在だったが、その背中を追いかけ
ているだけで俺は暗闇に足を踏み出すことができた。怖いものだらけだった。けれど
怖いものなんてなかった。
ザザザザザ……
不吉な音とともに風が草を薙いだ。
後ろは振り返りたくない。自然、足早になる。
こういう足元がよく見えない場所で、俺が思うのは小さなころから同じ。誰かに足を
掴まれたらどうしよう、という妄想だった。
風呂場で髪を洗っているときに目をつぶるのが恐ろしいように、人間は目に見えない
空間を恐れている。