[鋏]
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音響はそれには答えず、「シッ。ちょっと待って」と動きを止める。
溜息をついてオレンジジュースに手を伸ばしかけた時、なにか嫌な感じのする空気
の塊が背中のすぐ後ろを通り過ぎたような気がした。未分化の、まだ気配にもなっ
ていないような濃密な空気が。
周囲には、明るい店内で夜更かしをしている若者たちの声が何ごともなく飛び交っ
ている。
その只中で身を固まらせている俺は、同じように表情を強張らせている隣の少女に、
言葉にし難い仲間意識のようなものを感じていた。
嫌な感じが去ったあと、やがて深く息を吐き彼女は「とにかく」と言った。
「私は赤いハサミを鋏様に供えて、名前を3べん唱えた」
目を伏せたまま、長い睫がかすかに震えている。
「誰の」
聞き様によっては下世話な問いだったかも知れないが、他意は無く反射的にそう聞
いたのだった。
「私の」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中の理性的な部分が首をかしげ―― 首をかしげたま
ま、目に見えない別の世界に通じているドアがわずかに開くような、どこか懐かし
い感覚に襲われた気がした。
「なぜ」
「だって、何が起こるのか、知りたかったから」
ああ。
彼女もまた、暗い淵に立っている。
そう思った。
「で、何が起こった」
俺の言葉に、消え入りそうな声が帰ってきた。
ハサミの音が聞こえる……
「ちょっと待った。ハサミってのは、失恋で髪を切る羽目になるっていう比喩じゃ
ないのか」
「わからない」
彼女は頭を振った。
「だって、いま好きな男なんていないし。失恋しようがないじゃない」
その言葉が真実なのか判断がつかなかったが、俺は続けて問いかけた。
「そのクラスの仲間に名前を唱えられた女の中で、実際に髪を切った、もしくは
《切られた》やつはいるか」
「知らない。ホントに振られたコがいるって話は聞いたけど、髪の毛切ったかどう
かまでは分からない」
「その、鋏様の所に置いてきたハサミはどうした」
「……ほんとは見にいっちゃいけないってことになってるんだけど、おとといもう
一度行ってみたら……」
無くなってた。
音響は抑揚の薄い声を顰めると、「どうしたらいいと思う?」と続け、顔を上げた。
「その前にもう少し教えて欲しい。ハサミは一個も無かった? 自分のじゃない
やつも?」
頷くのを見て、腑に落ちない気持ちになる。
「おまじないの儀式としては、ハサミは供えっぱなしで取りに戻っちゃいけないって
ことじゃないのか? だったら、どうして前の人が置いたはずのハサミが無いんだ」
願いが叶ったら取りに戻るという話になっているのかと聞いても、違うという。誰か
が地蔵の手入れをしてるような様子はあったか、と聞いたが、完全に打ち捨てられ
ているような場所で、雑草はボウボウ、花の一つも飾られていない、人から忘れ去
られているような状態だというのだ。