[ナナシ]
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そして、僕らはアパートに着いた。 
ナナシはひと呼吸置くと、 
「終わった、な。」と言った。 
その言葉の意味がよくわからなかった僕は、 
ナナシに聞き返したが、ナナシは無言のまま僕の手を引いた。 
いつものナナシじゃない、お調子者のナナシじゃない。 
そんな不安が胸元にチラついたが、ナナシは構うことなく 
アパートの階段を上る。そして、 
「302」とプレートのついた部屋の前に立った。 
異様な空気が、僕の背中を掠めた。 
「ナナシ…?」 
ナナシは答えないで、ドアの前にあった、 
枯れた植木鉢から鍵を取り出し、ドアを開けた。 
すると、そこには。 
「人間だったもの」が、あった。 
「うぁあぁあぁあっ!!!」 
僕は大声を上げてヘタリこんだ。 
玄関先には女のひとが倒れていて、はいずるように俯せている。 
その体の下からは、夥しい量のまだ生々しい赤黒い血が、水溜まりのようになっている。 
僕はガタガタ震えながら、ナナシを見た。 
でも、ナナシは、 
「あはははははははははははははははは!!!!!!」 
笑っていた。 
僕はナナシが発狂したのかと思ったけど、そうじゃなかった。 
「見ろよ!!これが人間の業なんだよ!!ラクになりたくて死のうとしたって、 
死ぬことにまだ苦しむんだ!! 
この女、2日も前に腹をかっさばいたんだぞ!!2日だぞ!! 
2日も死ねなくて、痛い痛いって死んだんだ!! 
痛い苦しい助けてって、声も出ないのに叫びながら死んだんだよ!!!!死にたくなって腹を切ったのに、死にたくないなんて我が儘もいいとこだ!!」 
ナナシが早口でまくし立てる。僕は、死体よりも、血よりも、何よりも、ナナシが凄くこわかった。 
「死にたくないなら死ぬんじゃねぇよ!!!!死にたくなくても死ぬんだから!!!! 
馬鹿馬鹿しいにも程がある!!! 
神様なんていやしない!!!助けてくれるやつなんか、 
世界が終わっても来やしないんだよ!!!!」 
ナナシは叫び続けた。僕はナナシに必死にすがりついて、 
わけのわからないことを口走りながら、泣いた。 
しばらくして、我にかえると、ナナシが僕の頭を撫でていた。 
「警察、呼ばないとな。」 
ナナシは、そう言った。さっきまでの凄まじい形相のナナシはいなかった。 
でも、僕の友達だった、ヘラヘラ笑うお調子者のナナシも、 
もうどこにもいなかった。 
僕らは警察を呼び、簡単に事情を聞かれて、家に帰された。僕らは一言も口を聞かぬまま、 
別れた。 
その日、僕はいろんなことを考えた。 
何故、ナナシはあのアパートに行こうと言い出したのか。 
何故、ナナシはあの女のひとが2日前に自殺を図ったことを知ってたのか。 
何故、ナナシはあの部屋の鍵の場所を知ってたのか。 
ナナシがつぶやいた、「終わったな」って、なんだったのか。