[三つ折れ人形]
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班長が中にいる者の点呼をとる 
ところが例の娘さんの一家だけが、まだ来ていなかったそうである 
入り口に一番近い場所に座っていた母は、蓋をそっと細く開けて、外を覗いてみた 
向こうから娘さんが、その後ろからその母親が、こちらに向かって走ってくるのが見えたそうだ 
ハヤクハヤク、母は小さく叫んだそうだ 
あと数メートル、という所で、彼女のすぐ後ろに焼夷弾が落ちた 
後ろを走っていた母親には直撃、即死だったろう 
そして娘の方は 
実際、そんな時の悲鳴というのは物凄いものだそうだ 
叫びというよりは咆哮、聞きようによっては、それこそ警報のサイレンにも聞こえる 
そして、人間は青い炎を噴き上げながら燃えるということも知ったそうだ 
焼夷弾の硫黄の臭いと、髪の毛を焼く臭いが鼻を突く 
彼女はしばらくの間、立ちながら焼かれていたそうだが、やがて彼女の悲鳴は次第に細く高くなりついに崩れ折れ、それでもまだ青い炎を上げていたそうだ 
その間、母は瞬きすることも出来ず見ていたらしい 
地獄の炎、そんな言葉が頭に浮かぶ 
深川への爆撃は20分程も続いたらしいが、おそろしく長い時間に感じられたそうである 
しかも爆撃機はまだ上空を通過しており、今度は浅草の方の空が真っ赤である 
辺りは火の海で、このまま壕にいたら蒸し焼きになってしまう、母達は壕を出て火の来ない所に移動する事にした 
去り際に、あの娘の遺体を振り返った、あのきれいな人が丸坊主の、殆ど炭のようになっていたそうである 
なぜか赤子のように手足を屈め、なんだか正座しながら拳闘でもしているような形で死んでいたそうである
母が家に戻ったのは、もう夜が明けてからだった 
周りにはまだ火を噴いている所もあり、母達は、家はもう、とっくに焼けて無くなったものと思っていた 
けれどそうではなかった 
家は、屋根を少し焦がしただけで、そこにあった 
辺りの多くの家はまだ燻っているのに 
玄関に男が一人座っていた 
祖母の兄、私にとっては大叔父にあたる人だった 
その人は深川が爆撃を受けた事を知ると、妹の身を案じ、品川から深川まで飛んできてくれたのだ 
そしてあの火の中をありったけの水をかき集めて、降り注ぐ火の粉を夜通し払ってくれていた 
実際エラい人でした、私もあの人の前では生涯、膝を崩すことはできなかった 
そして、焼け残った家の中で、あの人形はちゃんと座っていたそうだ 
それ以来、人形は座ることはなかった 
人形ケースの中で背中を棒で支えられ、もう何十年も立っている 
ミツオレニンギョウ 
ムスメカエシテ アルジヲタスケタルカ