[忌まわしい記憶]

それは私が小学一年生の時ですから、昭和44年の出来事になります
私の家はその年の12月、武蔵野の三鷹市から神奈川の某地に引っ越しました
その数日前です、私は一人の人間を殺しているのかもしれない
かも、というのは、それが夢だか現実なのかがよくわからない、何しろ三十年以上も昔のことですから
ただ、いつの頃からか私の頭に巣喰っている、夢にしてはやけに生々しい、けれど虫喰いのように所々に穴のあいた私の記憶
どなたかきいていただけましょうか

当時、私は下連雀という所に住んでいました
私の住まう社宅を出て子供の足で5分程で通称水道道路という所に出ます、出たところを右に曲がり暫く行くと、やがて左に折れる道があります
現今ではあの辺りも随分と変わったでしょうが、当時は舗装されている箇所もあれば、そうでない所もあり、両脇にはススキをはじめ、いろんな雑草が生えていまして、車も通らず真っ直ぐな、自転車の練習にはうってつけの道でした
近くには、あの太宰治で有名な玉川上水があるそうです

で、その左に折れる道をまた暫く行くと、そこに着くのです
木造のアパートと、同じく木造平屋の小さな家が幾つか固まっている土地でした
今、私の年になってみると、なんとなくわかります、そこは周りの人達があまり行かない、またその土地の人達もあまり他所の人とは関わりをもたない、そんな土地だったのでしょう
昼間でもあまり人通りのない、ひっそりとして、なんとなく淋しい所でした
そんな所から当時の私の友達は私達の学校に通っていました
私とて別にそれ程裕福な家ではありませんでしたが、銀行員の父をもつ私にから見ると、Aは少しみすぼらしくみえました
仮に彼をAとさせて下さい
私達がこっそりと入ったアパート、当時のそれですから、階段は表にはなく、建物の中にありまして、まず入り口で履き物を脱ぎ、裸足で暗い階段を登りますと、やはり暗い廊下がありまして、右側に共同の流し場、左に五つ程の部屋が並んでいました
一番奥の突き当たりには何があったか覚えてません、ほんとの行き止まりか、セッチンか、いえ便所は階段を上がったすぐ右側にあったような気もします
裸電球しかない昼でも暗い廊下でした

そのアパートを囲む塀にもたれかかって、私とAは炎に見とれておりました
徳用の大きな箱にを家からクスねぎっしりと詰まったマッチを無くなるまでスっていました
シュッとすったマッチが、最初の一瞬青い炎になり、やがてオレンジ色になり軸をのぼっていく、自分の指の先までくるまで私達はその様に見とれていました
途中、少し背中の曲がったお婆さんが通りかかり、そんな私達をかなり厳しく諫めてアパートに入って行きました
けれども、私達はマッチの軸には飽きたらず、そこいらに落ちている新聞紙やら、ススキの穂、細い木片やらに火を移していき、何やら恍惚感に浸っていたのです
気が付いたときには陽も落ちかけていました
私達は、今日はオモシロかったね、また明日学校で、とそんなふうにそれぞれの家に帰って行きました

続く