[跳ぶ]
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言われたとおり、垂直跳びの要領でジャンプする。
ゲームとやらがはじまったらしい。
俺は変なテンションで、続けざまに飛び跳ねる。
おいおい、もういい。もういい。
苦笑した師匠に一度止められ、次に「今度は目をつぶって跳んでみ」と指示を
受けた。
目をつぶる。
跳ぶ。
着地の瞬間にバランスを崩しそうになり、そのまましゃがみこむ。
「そうそう、そんな風に地面につく瞬間に体を縮めて、出来るだけ滞空時間を長
 くしてみて」
何度もそのやり方で跳ばされた。
その次の指示には驚いた。
校舎の縁に立てというのである。
落下防止のフェンスのない部分があり、その前に立たされた。
もちろん下は奈落の底だ。
「じゃあ、目をつぶったままそこで跳んで」
縁に立つと、垂直跳びでも怖い。少しバランスを崩せば落ちかねない。
そんな俺の躊躇いを見透かしたように、「後ろに跳んでいいから」と師匠が声を
掛けた。
それなら、まあ出来ないこともない。
夜に切り取られたような校舎の縁の前に立ち、目をつぶる。つぶった瞬間に膝が
ぐらりとした。数十センチ先に、断崖がある。考えないようにしても、想像して
しまう。それでも、まだこの不思議なゲームを楽しむ余裕があった。
反動をつけ、掛け声をあげて後方に跳ぶ。着地し、そのまま転びそうになる。
「もう一度」という声に、従う。

5回も繰り返すと慣れてきた。よほどの突風でも吹かない限り、落下することは
ないし、今日の風は吹いても微風だ。
そう思っていると、師匠が「次は難しいぞ」と言った。
その場で、目をつぶったまま体を回転させ方角をわからなくしろ、と言うのである。
殺す気か。
俺がそう突っ込む前に、「跳ぶ前に声をかけるから」と言ってきた。
「それに縁に立って回るのが怖かったら、しゃがんだまま回ってもいい」
ドキドキしてきた。
いったいなにをさせる気なんだ。
それでも言うとおりにした。まだブレーキを踏むには早い。そんな気がする。
縁の前にしゃがみ込み、目をつぶったまその場でぐるぐると回る。怖いので、
両手を地面に触れるようにしながら。
十何回転かすると、すっかり方角がわからなくなった。
いったい断崖がどの方向にあるのか。
そう考えたとき、締め付けられるように心細くなった。座ったままだというの
に足元が今にも崩れ去りそうな頼りなさ。
目を開けたい。
その衝動と戦った。
やがて打ち勝ち、恐々ながら立ち上がる。
いつの間にか風が止んでいる。昼間ならば目を閉じていても感じる太陽も今ここ
にはない。
本当に方向がわからない。
方向はわからないけれど数歩先には確かに、人の命をあの世まで引っ張り込む
断崖がある。立っているだけで、どうしようもない恐怖心が襲ってきた。
座ろうか。
その誘惑に負けそうになったとき、師匠の声がした。

「ようし、こっちだ。跳べ」
確かにその声は正面から聞こえた。ほぼ真正面。
その瞬間に、右も左もない暗闇の世界で自分のいる座標が決定されたような、
一種のカタルシスがあった。
震えていた膝が伸びる。
これならいける。
目を閉じたまま体を沈ませ、前方に跳ぶための力を溜め込む。
その時、頭の中にイメージが浮かんだ。
闇に切り取られた断崖の向こう。
師匠が虚空にふわふわと浮かんで嗤っている。
バカか。
その悪夢のようなイメージを頭から振り払おうとする。
正面だ。真正面に跳べば、なんてことない。
自己暗示をかけながら、俺は歯を食い縛って暗闇の中に跳躍した。
白い線で、脳裏に絵を描く。
俺は師匠のいる方向に数十センチ跳び、やがて屋上のコンクリートに足から落ち
ていく。
その白い線で出来た地面にイメージの俺が着地したとき、本物の足にはまだ着地
の衝撃はなかった。
一瞬。
白い線でできた世界は消え去り、巨大な穴のような断崖が足元にぽっかりと口
を開けた。
恐慌が全身に広がる前に、下半身へ衝撃がきた。
着地。
膝をつき、両手をつく。
目を開けると、師匠が哲学者のような表情で腕を組んでいる。
「いま、落ちるのが遅く感じなかったか」

続く