[すれ違った人]

これは室井滋さんがエッセイで語っていた話です。

確か、同じ業界の人の話だったと思います。
ある深夜、その人(A子さんとします)が仕事を終え、自宅マンションに帰り、
エントランスにある、集合ポストの中の郵便物をチェックしていました。
その時、帽子を目深にかぶった人物とすれ違いました。
A子さんは、仕事柄時間が不規則なため、マンションの住人をほとんど把握
していませんでした。
そのため、その人が、ここの住人なのか、住人の知り合いなのかも分からず、
大して気にもとめないで、部屋に帰りました。

そして次の日の朝。
マンションの外や廊下がやけに騒がしく、A子さんは外の様子をうかがってみると、
パトカーが数台とまり、ただ事ではない状況でした。
テレビをつけてみると、自分のマンションの一室で殺人が起こったことを告げる
ニュースが流れています。
A子さんは、被害者の住人のことはもちろん知らないし、「物騒だな」ぐらいの気持ちで
そのニュースを眺めていました。

すると、突然インタフォンがなり、応対してみると、制服を着た警官が一人立っています。
その警官は、今ニュースでやっている事件について、怪しい人物を見なかったかとか、
何か気づいたことはないかといった、よくある質問をしました。
そこでA子さんは、きのう玄関で見た人物を思い出しましたが、帽子で顔は見えなかったし、
よくよく考えてみると、性別すら分からなかったので、
こんな証言は大して役に立たないだろうと、
その人物については黙っていました。

その後、刑事が来て、先ほどの警官とほぼ同じ内容の質問をしにたずねてきましたが、
A子さんは「何も知らない」で通し、その人物を見たことは、自分の中でなかった事にしました。

続く