[図書館]
前頁

そうか。
書庫は図書館自体が閉まるより早く施錠されるから……
随分待つ羽目になったが、人名尻取りを少しやったあとウトウトしはじめ、あっ
さりと二人とも眠ってしまった。
目が覚めてからよくこんな窮屈な格好で寝られたものだと思う。
凝った関節周辺を揉みほぐしながら隣の師匠を揺り動かすと、「どこ? ここ」
と寝ぼけたことを言うので唖然としかけたが、「冗談だ」とすぐに軽口だか弁解
だかをして外の様子を伺う。
暗い。
そして書庫の本棚が黒い壁のように視界を遮る。
先へ行く師匠を追いかけて手探りで進む。
息と、足音を殺して本の森の奥へと。
「あ」
師匠にぶつかって、立ち止まる。
闇の中でのジェスチャーに従い、その場に座り込む。
「その、エアポケットみたいな場所って」
ヒソヒソ声が言う。
「人間には居心地の悪い空間でも、霊魂にとってはそうじゃない。むしろ霊魂が
そこを通るから人間には避けたくなるんだろう」
「霊道ってやつですか」
首を振る気配がある。
「道って言葉はしっくり来ないな。どちらかというと、穴。そうだな。穴だ」
そんな言葉が静まり返った書庫の空気をかすかに振るわせる。
そして師匠は、この図書館が立っている場所にはかつて旧日本軍の施設があった
という話をした。
それは知っている。大学の中には、そのことにまつわる怪談話も多い。
「この真下に、巨大な穴がある」

掘ったら、とんでもないものが出てくるよ。たぶん。
そう言って、コツ、コツと床を指で叩く。
「だからそこに吸い込まれるように、昔からこの図書館には霊が通るそういう穴
 がたくさんある」
沈黙があった。
師匠が叩いた床をなぞる。長い時間の果てに降り積もった埃が指先にこびりついた。
ふいに足音を聞いた気がした。
耳を澄ますと、遠いような近いような場所から、確かに誰かが足を引きずる様な
音が聞こえてくる。
腰を浮かしかけると、師匠の手がそれを遮る。
その音は背後から聞こえたかと思うと、右回りに正面方向から聞こえ始める。
本棚の向こうを覗き込む気にはなれない。
歩く気配は続く。
それも、明らかに二人のいるこの場所を探している。それがわかる。
この真夜中の書庫という空間に、人間は俺たち二人しかいない。それもわかる。
奥歯の間から抜けるような嘲笑が聞こえ、師匠の方を向くと「あれはこっちには
来られないよ」という囁きが返ってくる。
結界というのがあるだろう。茶道では、主人と客の領域を分けるための仕切りの
ことだ。竹や木で作るものが一般的だが、僕が最も美しいと思うものが、書物で
つくる結界だよ。そして仏道では結界は僧を犯す俗を妨げるものが結界であり、
密教でははっきりと魔を塞ぐものをそう言う。結界の張り方は様々あるけれど、
古今、本で作るものほど美しいものはない。
ザリザリ。
革が上下に擦られるようなそんな音をさせて、師匠は背後にそびえる棚から一冊
の本を抜きとった。暗い色合いのカバーで、タイトルは読めない。

続く