[お増すの池]
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がしり


恐ろしいほど強い力で左肩を掴まれました。あまりに強い力で掴まれたので、それ以上先に進むことも出来ません。
心臓が壊れそうなくらい早鐘を打っています。私は泣き出したくなるのを堪えながら、ゆっくりと掴まれた左肩の方を
振り返りました。
「!!?」
振り返った私の眼と鼻の先にいたのは、人の姿をしたものでした。「人の姿をしたもの」という言い方はおかしいのですが、
全体がどろどろに腐っていて、やっと人の形を留めているようだったからです。顔も、あの血走った目以外の顔のパーツが
全く分かりません。頭のあちらこちらから、長い髪の毛の束がだらりと垂れ下がっています。
そう、先程蓮の葉の下に隠れていたものの正体はこれだったのです。それから発せられる酷い臭いが私の鼻を突きます。
あまりのショックと恐ろしさに、私は気が遠くなっていくのを感じました。
アスファルトに倒れる衝撃を最後に、私は何も憶えていません。

 一体どれくらいの時間が経っていたのでしょうか?私がぼんやりと目を開けると、最初に明るい光が、
そして次に私を心配そうに覗き込む人々の顔が飛び込んできました。ゆっくり起き上がると、
そこは公園のジョギングコースでした。すでに空には日が昇り、池はその光を受けてきらきらと輝いていました。
まだ頭の中で整理がつかない私に、傍にしゃがんでいた中年の男性が心配そうに話しかけてきました。
「大丈夫かい?公園に来たら君がここに倒れているのを見つけたんだよ。呼びかけても目を覚まさないから
救急車を呼ぼうと思っていたんだけどね」
そう言われて私は、ようやく気を失う前の出来事を思い出し、また体が震え始めました。それを見た周囲の人々は、
心配そうに私の顔を覗き込みます。
「こんな話、信じてもらえないかもしれませんけど・・・」
私は信じてもらえないのを承知で、先程私の身に起こった恐ろしい出来事をその場にいた人々に話しました。
話している途中で幾人かの人々が、「そんなこと、ありえないよ」「夢でも見ていたんじゃないの?」などと
小声で言うのが聞こえました。やはり、そうでしょう。私自身話していながら、あれは夢だったのではないかと
思い始めた位ですから。

 私が話し終えた後、何とも言いようのない空気がその場を包みました。落ち着きを取り戻し、
だんだん恥ずかしくなってきた私がその場を離れようと立ち上がりかけた時、話を聞いていた一人のおばあさんが
ぽつりとこう言いました。
「もしかしたら、それはお増かもしれないねぇ」
「おます?何ですか、それは?」
倒れている私を見つけた男性が不思議そうに尋ねました。私も気になったので、そのおばあさんに視線を移しました。
周りにいた人々も同様に、おばあさんの顔を見つめました。思いがけなく自分に注目が集まったおばあさんは
少し戸惑った顔をしましたが、やがて話し始めました。
「今は知っている人は少ないけれど、この池は昔『お増の池』と呼ばれていたんだよ。そしてこれは私が子供の頃、
おじいさんに聞いた話なんだけどね」
 そのおばあさんの話は、こんなものでした。
  まだこの辺りが小さな集落だった頃のことです。ある大きな農家の一人娘であるお増という女性が、
この池に身を投げて命を絶ったのだそうです。理由は分かりませんが、ある日の朝早く
池のほとりにきちんと揃えられた草履と、お増がいつも髪に挿していたかんざしが残されていたそうです。
そして不思議なことに、いくら池を捜してみてもお増の死体が発見されることはなかったということです。
「私もこの話を聞いた時はただの昔話だと思っていたけれど。さっきの話が本当だとしたら
成仏できないお増の霊があなたの前に現れたのかもしれないよ」
私は何も言うことができませんでした。それからその場にいた人々にお礼を言い、家に帰りました。
あれから例の公園には行っていません。
 あの日私が見たものは何だったのでしょうか?おばあさんの話の中の、お増という女性だったかどうかは
今となっては分かりません。
ですが私が気を失う少し前に見たあの顔が、どこか悲しい目をしていたことだけははっきりと憶えています。


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