[10円]
前頁

昭和5×年と刻印されているその下に、なにか鋭利なものでつけられたと思し
き傷がある。小さくて見え辛いが「K&C」と読める。
これは? と問うと、私が彫ったと言う。
犯罪じゃないかと思ったが、突っ込まなかった。
「高1だったかな。15歳だったから、何年前だ・・・・・・6年くらいか。学校で
 友だちとこっくりさんをしたんだよ。自分たちは霊魂さまって呼んでたけど。
 それで使い終わった10円をさ、持ってちゃダメだっていう話聞いたことあ
 ると思うけど、私たちの間でもすぐに使わなきゃいけない、なんていう話に
 なって確かパン屋でジュースかなにかを買ったんだよ」
僕も経験がある。僕の場合は、こっくりさんで使った紙も近くの稲荷で燃やし
たりした。
「使う前にちょっとしたイタズラを考えた。そのころ流行ってた噂に、そうし
 て使った10円がなんども自分の手元に還って来るっていう怪談があった。
 でもどうして、その10円が自分が使ったやつだってわかるんだろうと常々
 疑問だった。だから還ってきたらわかるように、サインをしたんだ」

それがここにあるということは・・・・・・
「そう。そんなことがあったなんて完璧に忘れてたのに、還って来たんだよ
 今ごろ」
4日前にコンビニでもらったお釣りの中に、変な傷がついてる10円玉がある
と思ったらまさしくその霊魂さまで使用した10円玉だったのだと言う。
微妙だ。
と思った。
10円玉が世間に何枚流通しているのか知らないが、所詮同じ市内の出来事だ。
僕らは毎日のようにお金のやりとりをしてる。6年も経てば一度くらい同じ
硬貨が手元に来ることもあるだろう。普段は10円玉なんてものを個体として
考えないから意識していないだけで、案外ままあることなのかも知れない。た
だ確かにその曰くがついた10円玉が、という所は奇妙ではある。
「どこで使われて、何人の人が使って、私のところまで戻って来たんだろうなあ」
感慨深げに京介さんは10円玉を照明にかざす。僕は、なぜか救われたような
気持ちになった。
喫茶店を出るとき、「奢ってやる」という京介さんに恐縮しつつもお言葉に甘
えようと構えていると、目を疑う光景を見た。
レジでその10円玉を使おうとしていたのだ。
「ちょっとちょっと」と止めようとする僕を制して「いいから」と京介さんは
会計を済ませてしまった。
ありがとうございましたとお辞儀した店員には、どっちが払うかで揉める客の
ように見えたかもしれない。

歩きながら僕は「どうしてですか」と問いかけた。だって、そんな奇跡的な出
来事の証しなのだから、当然自分自身にとって10円どころの価値ではない
宝物になるはずだ。
しかし京介さんは「また還って来たら、面白いじゃないか」とあっさりと言い
放った。
聞くと、その10円玉が手元に戻って来た時から決めていたのだと言う。ただ
10円玉を支払いに使う機会が今まで偶々なかっただけなのだと。
歩幅が、僕よりも広い。
少し早足で追いかける。
その歩き方に、迷いない生き方をして来た人だという、憧れとも尊敬ともつか
ない感情が沸き起こったのを覚えている。
追いついて横に並んだ僕に、京介さんは思いついたように言った。
「奢る必要があっただろうか」
そんなことを今さら言われても困る。
「私の方が年上だけど、私は女でそっちは男だ」
ちょっと眉に皺を寄せて考えている。
そして哲学を語るような真面目な口調で言うのである。
「あのコーヒーだけだと、10円玉は使わなかったはずだ。オレンジジュース
 が加わってはじめて10円玉が出て行く金額になる」
これはノー・フェイトかも知れない。
そんな言葉を呟いて苦笑いを浮かべている。
その意味はわからなかったけれど、彼女の口から踊るその言葉をとても綺麗だ
と思った。


思えばK&Cと刻まれた10円玉が京介さんのもとへと還って来たのは、そのあ
とに起こったやっかいな出来事の兆しだったのかも知れない。


次の話

Part156menu
top