[10円]

大学1回生の春。
休日に僕は自転車で街に出ていた。まだその新しい街に慣れていないころで、
古着屋など気の利いた店を知らない僕は、とりあえず中心街の大きな百貨店
に入りメンズ服などを物色しながらうろうろしていた。
そのテナントの一つに小さなペットショップがあり何気なく立ち寄ってみると、
見覚えのある人がハムスターのコーナーにいた。腰を屈めて、落ち着きのな
い小さな動物の動きを熱心に目で追いかけている。
一瞬誰だったか思い出せなかったが、すぐについこのあいだオフ会で会った
人だと分かる。地元のオカルト系ネット掲示板に出入りし始めたころだった。
彼女もこちらの視線に気づいたようで、顔を上げた。
「あ、こないだの」
「あ、どうも」
とりあえずそんな挨拶を交わしたが、彼女が人差し指を眉間にあてて「あー、
なんだっけ。ハンドルネーム」と言うので、僕は本名を名乗った。彼女のハ
ンドルネームは確か京介と言ったはずだ。少し年上で背の高い女性だった。
買い物かと聞くので、見てるだけですと答えると「ちょっとつきあわないか」
と言われた。
ドキドキした。男から見てもカッコよくて、一緒に歩いているだけでなんだ
か自慢げな気持ちになるような人だったから。
「はい」と答えたものの「ちょっと待て」と手で制され、僕は彼女が納得い
くまでハムスターを観察するのを待つはめになった。変な人だ、と思った。

京介さんは「喉が渇いたな」と言い、百貨店内の喫茶店に僕を連れて行った。
向かい合って席に座り、先日のオフ会で僕がこうむった恐怖体験のことを暫し
語り合った。気さくな雰囲気の人ではないが、聞き上手というのか、そのさば
さばした相槌にこちらの言いたいことがスムーズに流れ出るような感じだった。
けれど、僕は彼女の表情にふとした瞬間に浮かぶ陰のようなものを感じて、そ
れが会話の微妙な違和感になっていった。
話が途切れ、二人とも自分の飲み物に手を伸ばす。
急に周囲の雑音が大きくなった気がした。
もともと人見知りするほうで、こういう緊張感に耐えられないたちの僕は、な
んとか話題を探そうと頭を回転させた。
そして特に深い考えもなく、こんなことを口走った。
「僕、霊感が強いほうなんですけど、このビルに入った時からなんか首筋が
 チリチリして変な感じなんですよね」
デマカセだった。オカルトが好きな人なら、こういう話に乗ってくるんじゃ
ないかという、ただそれだけの意図だった。
ところが京介さんの目が細くなり、急に引き締まったような顔をした。
「そうか」
なにか不味いことを言っただろうか、と不安になった。
「このあたりは」とコーヒーを置いて口を開く。
「このあたりは戦時中に激しい空襲があったんだ。B29の編隊が空を覆って、
 焼夷弾から逃れてこの店の地下に逃げ込んだ人たちが大勢いたんだけど、煙
 と炎に巻かれて、逃げ場もなくなってみんな死んでいった」
淡々と語るその口調には非難めいたものも、好奇も、怒りもなかった。ただ語
ることに真摯だった。
僕はそのとき、この女性が地元の生まれなんだとわかった。
「まだ夜も明けない時間だったそうだ」
そう言って、再びカップに手を伸ばす。

後悔した。無責任なことを言うんじゃなかった。
情けなくて気が滅入った。
京介さんは暫し天井のあたりに視線を漂わせていたが、僕の様子を見て「オイ」
と身を乗り出した。
そして、「元気出せ少年」と笑い、「いいもの見せてやるから」とジーンズの
ポケットを探り始めた。
なんだろうと思う僕の目の前で京介さんは黒い財布を取り出し、中から硬貨を
1枚出してテーブルの上に置いた。
10円玉だった。
なんの変哲もないように見える。
頷くので手にとってみると、表には何もないが10と書いてある裏面を返すと
そこには見慣れない模様があった。

続く