[呪いの暴走]
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完全なる静寂。
風の吹き抜ける音。
その風で揺れる木のざわめき。
遠くで聞こえる車の走る音といった些細な音すらしなかった。
耳鳴りで鼓膜が痛くなるほどの無音状態。ひたすら不気味だった。
もぞもぞと女性が動いている音が響いた。生きてた。それを見て、おっさんが焦り始めた。動揺の色を隠せない様子だ。マセラティに乗り込む。

「とにかく後ろに乗れ。詳しい事情は後で話す。」
僕は乗らなかった。誘拐だと思ったからだ。唯一の目撃者を始末するために、どこかに連れて行く気だ。そう推理した。

「俺を信じろ」
そう言われるが無理だった。やはりここは救急車と警察を呼ぶべきだ。
(当時、まだケータイは普及していなかったので)急いで公衆電話を探す。
すぐに見つかった。
よりによって女性が倒れている家のすぐそばに電話ボックスがあった。
でも、こんな場所に電話ボックスなんてあったけ?いや、そんなことは関係ない。
今は一刻を争う事態だ。ぐずぐずしていると死んでしまう。電話ボックスに向かって走り出した。

「馬鹿!戻れ!そっちに行くな!」
おっさんの叫ぶ声が聞こえる。知ったことか!電話ボックスに飛び込み、急いで119に電話。電話ボックス側は垣根がないので、倒れている女性が見える。
上半身は塀に隠れているものの、脚だけは見えた。小刻みに痙攣している。
僕は、それを見ないよう背中を向けて、呼び出し音を聞いていた。おっさんは黙って運転席から僕を見ていた。
受話器を取る音が聞こえた。

「ふふふふふふふふ…」

思わず受話器を落としそうになった。そりゃそうだ。いきなり受話器から女性の笑い声が聞こえたからだ。
背中に視線を感じる。後ろを振り返るとゾッとした。
女性がまさに電話ボックスのガラス一枚挟んで立っていたからだ。
僕は、ここで初めて女性の顔を見た。バサバサに散らばった黒い髪と眼球の無い空洞の目。それだけしか分からなかった。
他の部分は、吐きかけた息でガラスが曇って見えなかったからだ。
蛇に睨まれた蛙のように動けなかった。背筋が凍ってしまい、何とも嫌な汗が全身に滲み出るのが分かった。腰こそ抜かさなかったが、筋肉が弛緩したせいで思わず失禁。
脚をつたう温かい尿のおかげで感覚が戻ると、脊髄反射のごとくおっさんのいるところまで全力疾走。
参考書がパンパンに詰まったリュックを背負っていたのだが、そんなのもろともせず、我ながら驚くスピードだった。
どうやらマセラティのエンジンがかからないらしく、おっさんはいきなり僕の腕をつかむと、そのまま引っ張るようなかたちで走り出した。

「走れ!絶対に後ろを見るな!」

こうなったらもうおっさんに従うしかない。
背後で引きずったような音が、どんどん近づいているのが聞こえる。

ずるずるずるずるずるずるずるずる…

「這ってこの速さかよ。脚をだめにしなかったら車でもダメだったな…」
悲鳴にならない叫び声をあげながら、もう無我夢中で走る。が、リュックを背負って走っているので思うように走れない。

「おい!リュックなんか捨てろ!つかまるぞ!」
そう言われるが、捨てるのをためらう。人間こんなときでも欲だけはちゃんと働くんだなって思った。

そんな僕を見かねたのか、おっさんは呪文のような言葉を唱え始めた。
もう今にも追いつかんばかりに、ずるずると這う音が迫ってくる。そして首筋に生暖かい吐息がかかるのが分かった。
耳元で息遣いも聞こえる。もうだめだと思ったそのとき…

バン!
後ろで爆竹のような爆発音がした。その音に紛れてうめき声が聞こえる。何かがのた打ち回るような音もする。もう這う音はしない。
しかし、おっさんはそんなことお構いなしに走り続けた。

どれくらい走っただろうか?
学校の体育で持久走をやっているためか、はたまた火事場の馬鹿力のおかげか分からないが、よくもまあずっと走れたと思う。
どこをどう走ったのか分からない。
気付いたら、自分の家から300メートルくらい離れた場所にある神社にいた。失禁してビショビショだった下半身もいつの間にかすっかり乾いている。

道路を行き交う車が見えた途端、助かったという安心感と疲労感のせいで力が抜けてしまい、
リュックの重さも手伝って、路肩にへなへな〜としゃがみこんでしまった。
喉がカラカラに渇き切って唾が出なかった。手水舎があったので水を飲む。

おっさんがやってきた。とにかくお礼をしなきゃ。しかし、興奮状態で呼吸が乱れてて、うまく呂律が回らない。

「あ…あの…助けてくれ…テ…ありがトう…ございましタ…。」
おっさんはネクタイを結びなおしつつ「なに、礼には及ばないよ。」と一言。深呼吸を繰り返し呼吸を落ち着けている僕を、おっさんは横目で見ながら「どうしたもんかな…。」と
呟いていた。

続く