[ドッペルゲンガー]
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つまり、あの人なわけですね。
俺は頭の中でさえ、その名前を想起しないように意識を上手く散らした。
「甘く見ていたわけじゃないんだが、まずいなこれは」
京介さんは眉間に皺を寄せてテーブルを指でトントンと叩いた。
俺は生きた心地もせず、ようやくぼそりと呟いた。
「こんなことならタリスマン、返すんじゃなかった」
その瞬間、京介さんが俺の胸倉を掴んだ。
「今なんて言った」
「だ、だからあの魔除けのなんとかいうタリスマンを返したのは失敗だった
 って言ったんですよ。また貸してくれませんか」
なぜか京介さんは珍しく険しい形相で強く言った。
「なに言ってるんだ、おまえはタリスマンを返してないぞ」
俺はなにを言われているのかわからず、うろたえながら答える。
「先週返しにいったじゃないですか、ほら風呂入るから帰れって言われた
 日ですよ」
「まだ持ってろって言ったろ?! あれをどうしたんだ」
「だから返したじゃないですか。だから今はないですよ」
京介さんは俺の胸元を触って確かめた。
「どこで無くした」
「返しましたって。受け取ったじゃないですか」
「どうしたっていうんだ。おまえは返してない」
会話が噛み合わなかった。
俺は返したと言い、京介さんは返してないと言う。
嘘なんか言ってない。俺の記憶では間違いなく京介さんにタリスマンを返し
ている。
そして少なくとも、いま俺が魔除けの類をなにも持っていないのは確かだった。

京介さんはいきなり自分のシャツの胸元に手を突っ込むと、三角形が絡み合っ
た図案のペンダントを取り出した。
「これを持っていろ」
それはたしか、京介さん以外の人が触ると力が失せるとか言っていたものでは
なかったか。
「よく見ろ。あれは六芒星で、これは五芒星」
そう言われればそうだ。
「とりあえずはこれで、もう一人のおまえにどうこうされることはないだろう。
 だがなにが起こるかわからない。しばらく慎重に行動しろ。なにかあったら、
 私か・・・・・・」
そこで京介さんは言葉を切り、真剣な表情で続けた。
「あの変態に連絡しろ」
あの変態とは、俺のオカルト道の師匠のことだ。京介さんは師匠とやたら反目
している。はずだった。
「まったく」と言って、京介さんは喫茶店の椅子に深く沈んだ。
そして「ドッペルゲンガーは」と繋いだ。
「死期が近づいた人間の前に現れるっていうのはさ、嘘っぱちだと思ってた。
 ずっと前から見えてたのに、今まで生きてたわけだし。でも、違うのかも
 知れない。ただの幻が、いまドッペルゲンガーになろうとしているのかも
 知れない」
俺は死にたくない。まだ彼女もいない。童貞のまま死ぬなんて、生き物として
失格な気がする。
「その、もう一人の京介さんは今もいますか」
うつむき加減にそう聞くと、京介さんは頷いて長い指でスーッと側方の一点を
指し示した。
そこにはなにも見えなかった。
京介さんの指先は店内の一つの席をはっきり指していたのに、そこにはだれも
座っていなかった。
店内はランチタイムで混み始め、ほとんどの席が埋まってしまっているという
のに、そこにはだれも座っていないのだった。


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