[病院]
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所長は、穏やかではあるが強い口調で「忘れなさい」と言うと帰り支度を
始めた。
俺は一人残された事務所で、いよいよ切羽詰ったレセプト請求の仕上げと格闘
しなければならなかった。やたらと浮き足立ってしまった心のままで。
泣きそうになりながら、減らない書類の山に向かってひたすら手を動かす。
夜蝉も鳴き止んだ静けさの中で一人、なにかとても恐ろしい幻想がやってくる
のを必死で振り払っていた。
よりによって、次の日は10日の締め切りだった。どんなに遅くなってもレセ
プトを終わらせなくてはならない。
チッチッチッ
という時計の音だけが部屋に満ちて、俺はその短針の位置を確認するのが怖
かった。多分日付変わってるなぁ、と思いながら段々脳みその働きが鈍くなって
いくのを感じていた。
いつのまにウトウトしていたのか、俺はガクンという衝撃で目を覚ました。
意識が鮮明になり、そして部屋には張り詰めたような空気があった。
なぜかわからないが、とっさに窓を見た。
その向こうには闇と、遠くに見える民家の明かりがぽつりぽつりと偏在して
いるだけだった。
次にドアを見た。なにかが去っていく気配があった気がした。
そして俺の頭の中には、今日所長に質問した中にはなかった、奇怪な噂が新た
に入り込んでいた。
遠くから蝿の呻くような音がする。
「誰に聞いたのか」
とは、そういうことなのか。
『誰も言うはずがない話』
あるいは、『所長以外、誰も知っているはずがない話』
たとえば、所長が最期を看取った人の話・・・・・・

そんな話を俺がしたら、今日のような態度になるだろうか。
そんな噂話を俺にしたのは誰だろう。今、闇に消えたような気配の主だろうか。
生々しい、そしてついさっきまでは知らなかったはずの奇怪な噂が頭の中で渦
を巻いている。
俺はここから去りたかった。
でも絶対無理だ。
今あのドアを開けて、暗い廊下に出て、人の居ない病室を通り、狭い階段を
降り、霊安室の前を行くのは。
俺はブルブルと震えながら、このバイトを引き受けたことを後悔していた。
廊下の闇の中に、なにかを囁きあうような気配の残滓が漂っているような気がする。
それからどれくらい経ったのか。
ふいに静寂を切り裂くような電話のベルが鳴った。
心臓に悪い音だった。
でも、生きている人間側の音だという、そんな意味不明の確信にすがりつくよ
うに受話器をとった。
「もしもし」
「よかったー。まだいた。ねえ、そこに○○さんのカルテない?」
聞き覚えのある声がした。ステーションのナースの一人だった。
「すっごく悪いんだけど、今○○さんの家から連絡があって、危篤らしいから、
 ほんと悪いんだけど今すぐカルテ持って○○さんの家に来てくれない? 
 私もすぐ行くけど、そっち寄ってたら時間かかりそうだから」
俺は「はい」と言って、すぐにカルテを持って駆け出した。
ドアを開けて、廊下を抜けて、階段を降りて、霊安室の前を通って、生暖かい
夜風の吹く空の下へ飛び出した。

所詮は臨時の事務職だ。
でもその日、人の命に関わる仕事をしたという確かな感触があった。
鬱々と、下を向いてばかりでなくてよかった。
人の死を、興味本位で語るばかりじゃなくてよかった。
こんな、夜の緊急訪問はよくあることらしい。でも俺にとって、特別な意味
がある気がした。
だから、カルテを届けたあとまた事務所に帰ってレセプト請求をすべて完成
させるのに、全精力を傾けられたのだろう。

次の日、あまり寝てない瞼をこすりながら出勤すると、所長が「お疲れ様。
昨日は大変だったわね」と話かけて来た。
俺は、「いえ、このくらい」と答えたが、所長は首を振って「やっぱりあなた
には向いてない職場かもね」と優しい声で言うのだった。
俺はそのあと、2週間くらいでそのバイトを止めた。
いい経験になったとは思う。
でも、人の死をあれほど受け止めなければならない職場は、やはり俺には向
いてないのだろう。
俺があの夜、カルテを届けた人はその日の朝に亡くなった。
そしてその死を看取ったナースは、すぐに次の訪問先へ向かった。また、その
肩に死者の一部を残したままで。


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