[病院]
前頁

事務所のすぐ前の電灯が点いているだけで、それもやたらに光量が少ない。
どけちめ。だから病院はきらいだ。
廊下を少し進んで、階段を降りる。
1階までつくと人心地つくのだが、裏口から出ようとすると最後の関門がある。
途中で霊安室の前を通るのだ。
もっとこう、地下室とか廊下の一番奥とかそんなところにあることをイメージ
していた俺には意外だったが、あるものは仕方がない。
『霊安室』とだけ書かれたプレートのドアの前を通り過ぎていると、どうして
も摺りガラスの向こうに目をやってしまう。
中を見せたいのか見せたくないのか、どっちなんだと突っ込みたくなる。
中は暗がりなので、もちろんなにも見えない。なにかが蠢いていてもきっと外
からはわからないだろう。
そんな自分の発想自体に怯えて、俺は足早に通り過ぎるのだった。

そんなある日、レセプト請求も追い込みに入った頃に、夕方の訪問を終えた
ナースの一人が事務所に帰ってきた。
ドアを開けた瞬間、俺は思わず目を瞑った。なぜかわからないが、見ないほう
がいい気がしたのだ。
そのまま俯いて生唾を飲む俺の前をナースは通り過ぎ、所長の席まで行くと
沈んだ声で「××さんが亡くなりました」と言った。
所長は「そう」と言うと、落ち着いた声でナースを労った。そしてその人の
最期の様子を聞き、手を合わせる気配のあとで「お疲れさまでした」と一言いった。
PTやOTというリハビリ中心の訪問業務と違い、ナースは末期の患者を訪問
することが多い。病院での死よりも、自分の家での死を家族が、あるいは自分
が選択した人たちだ。多ければ年に10件以上の死に立ち会うこともある。
そんなことがあると、今更ながら病院は人の死を扱う場所なのだと気づく。
複数回訪問の多さから薄々予感されたことではあったが、ついさっきまでその
人のレセプトを仕上げていたばかりの俺にはショックが大きかった。

そして、いま目が開けられないのは、そこにその人がいるからだった。
その頃は異様に霊感が高まっていた時期で、けっして望んでいるわけでもない
のに、死んだ人が見えてしまうことがよくあった。高校時代まではそれほど
でもなかったのに、大学に入ってから霊感の強い人に近づきすぎたせいだろうか。
「じゃあ、これで失礼します。お疲れ様でした」
ナースが帰り支度をするのを音だけで聞いていた。そして蝿が唸っている
ような耳鳴りが去るのをじっと待った。
二つの気配がドアを抜けて廊下へ消えていった。
俺はようやく深い息を吐くと、汗を拭った。
たぶんさっきのは、とり憑いたというわけでもないのだろう。ただ「残って
いる」だけだ。
明日にはもう連れて来ることはないだろう。
俺は、ここに「残らなかった」ことを心底安堵していた。その日も夜遅くまで
残業しなければならなかったから。
その次の日。
もう終業間近という頃。
不謹慎な気がして、死んだ人のことをあれこれ聞けないでいると、所長の方
から話しかけてきた。
「あなた見えるんでしょう」
ドキっとした。事務所には俺と所長しかいなかった。
「私はね、見えるわけじゃないけど、そこにいるってことは感じる」
所長は優しい声で言った。
そういえば、この人はあの師匠の知り合いなのだった。
「じゃあ、昨日手を合わせていたのは」
「ええ。でもあれはいつでもする私の癖ね」
そう言ってそっと手を合わせる仕草をした。

俺は不味いかなと思いつつも、どうしても聞きたかったことを口にした。
「あの、夜中に人のいないベッドからナースコールが鳴るって、本当にあった
 んですか」
所長は溜息をついたあと、答えてくれた。
「あった。仲間からも聞いたし。私自身も何度もあるわ。でもそのすべてが
 おかしいわけでもないと思う。計器の接触不良で鳴ってしまうことも確かに
 あったから。でもすべてが故障というわけでもないのも確かね」
「じゃ、じゃあこれは?」
と所長の口が閉じてしまわないうちに俺は今までに聞いた噂話をあげていった。
所長は苦笑しながらも、一々「それは違うわね」「それはあると思う」と丁寧
に答えてくれた。
今考えれば、こんな興味本位なだけの下世話で失礼な質問をよく並べられた
ものだと思う。しかしたぶん所長は、師匠から俺を紹介された時、なにか師匠
に含められていたのではないだろうか。
ところが、ある質問をしたときに所長の声色が変わった。
「それは誰から聞いたの?」
俺は驚いて思わず「済みません」と謝ってしまった。
「謝ることはないけど、誰がそんなことを言ったの」
所長に強い口調でそう言われたけれど、俺は答えられなかった。
どんな質問だったのか、はっきり思い出せないのだが、この病棟に関する怪奇
じみた噂話だったことは確かだ。
不思議なことに、その訪問看護ステーションのバイトを止めてすぐに、この噂
についての記憶が定かでなくなった。
だがその時ははっきり覚えていたはずなのだ。ついさっき自分でした質問なの
だから当たり前であるが。しかし誰からその噂を聞いたのかはその時も思い
出せなかった。ナースの誰かだったか。それともPTか、OTか。病院の
職員か・・・・・・

続く