[血 前編]
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京介さんのマンションへ向かう途中、俺は悲壮な覚悟で夜道を
歩いていた。
自転車がパンクしたのだった。
偶然のような気がしない。
またガムを踏んだ。
偶然のような気がしないのだ。
地面に靴をこすりつけようとして、ふと靴の裏を見てみた。
心臓が止まりそうになった。
なにもついていなかった!
ガムどころか、泥も汚れも、なにも。
では、あの足の裏を引っ張られる感覚は一体なに?
「京子」さんのことを嗅ぎ回るようになってから、やたら踏
むようになったガムは、もしかしてすべてガムではなかったの
だろうか?
立ち止まった俺を、俺のではないまばたきが襲った。
上から閉じていく世界のその先端に、一瞬、ほんの一瞬、黒く
長いものが見えた気がした。
睫毛?
そう思ったとき、俺は駆け出した。
勘弁してください!
そう心の中で叫びながら、マンションへ走った。

チャイムを鳴らしたあと、「うーい」というだるそうな声とと
もにドアが開いた。
「すみませんでした!」
京介さんは俺を見下ろして、すぐにしゃがんだ。
「なんでいきなり土下座なんだ」
まあとにかく入れ、と言って部屋に上がらされた。
俺は半泣きで、謝罪の言葉を口にして、今までのことを話した
はずだが、あまり覚えていない。
俺の要領を得ない話を聞き終わったあと、京介さんはため息を
ついてジーンズのポケットをごそごそと探り、財布から自動二
輪の免許書を取り出した。
『山中ちひろ』
そう書いてあった。
俺は間抜け面で、
「だ、だって、背が高くてショートで・・・」
と言ったが、
「私は高校のときはずっとロングだ」
バカか、と言われた。
じゃあ、間崎京子というのは・・・
「お前は命知らずだな。あいつにだけは、近づかないほうがいい」
どこかホッとして、そしてすぐに鳥肌が立った。


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