[沈没船の死体]
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「船べりに手が重なってきました。三角波にくわえて周囲から手で押されるので、
舟艇は激しくゆれました。乗ってくれば沈むということよりも、船べりをおおった
手が、恐ろしくてなりませんでした。海面は兵の体でうずまり、その中に三隻の
舟艇がはさまってました。他の舟艇で、将校が一斉に軍刀をぬき、私の乗っていた
船でも、軍刀がぬかれました。手に対する恐怖感が、軍刀をふるわせたのです。
切っても切っても、また新たな手がつかまってきました」
「あなたは、なにもなさらなかったのですか?」
「靴で蹴っただけです」
 男は、かすかに眉をしかめた。
「腕を切られた兵士は、沈んでいきましたか」
「そうです。しかし、そのまま泳いでいる者もいました。
「兵士たちは、なにか言いましたか?」
 私は、たずねた。

 男は、口をつぐんだ。微笑がこわばった。フィルターつきの煙草を手にした
が、火はつけなかった。
 男が、口を開いた。
「天皇陛下万歳、と叫んでいました」
 私は、ノートをとる手をとめて、男の顔を見つめたが、窓の外に視線をそらせた。

後書きによると、その後この事件についてNHK・ドキュメンタリーが企画され、
吉村氏はプロデューサーからK氏の住所と名前を教えて欲しいと何度も懇願さ
れたが、口をつぐみ続けたらしい。取材のため老漁師に話を聞いたときも、終戦
から25年もたっているのに、憲兵に口止めされているからといってなかなかしゃべって
くれなかったそうだ・・・

吉村昭では、他に「総員起シ」もおすすめ。戦争中、瀬戸内海で訓練中の潜水艦が沈没、
102人が死んだ。9年後に潜水艦を引き上げたのだが、艦内には水の進入を免れた区画が
あり、当時のままの姿で保存されていたのだ・・・。

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