[悲しい事故]
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なぜかというと、それはベテランの地元インストラクターOさんのカヌーだったからだ。
Oさんのキャリアからいって、こうした状況など珍しくもないし、安全のための装備も
おこたりない。いりくんだ大岩と木々で瀬の上から彼の姿は見えなかったが、すぐに
脱出して川沿いにのんびりと下りてくるはずだった。

そのため、むしろOさんのことよりも、流れていくカヌーとパドルの方が気になった。
操縦者を失ったカヌーは、ときどき岩にぶち当たって方向を変えながら流されていく。
さらに下流の上陸ポイントには、先行した部員たちがいるはずだが、そこまでの間で
何かに引っかかってしまうと、探し出して回収するのが面倒だ。車でサポートする側
にまわっていた、もう一人のインストラクターであるSさんは、そう判断すると、残った
マネージャーたちを車に乗せ、上陸ポイントに先回りすることにした。10分後、Sさん
が部員たちを集めて事情を話していたちょうどその時、転覆したままのカヌーが、
対岸の水がグルグルと淀んでいるところで、「ゴッ!」という鈍い音と共に突然止まった。

「もう、本当にOさんも迷惑かけてくれるよな。」
「まあまあ、Oだって、おまえらの手前、今頃バツの悪い思いをしてるよ。」

それぞれ軽口をたたきながら、Sさんと3人の部員がカヌーをつかまえようと水の中へ
入っていった。川の水はひんやりと冷たく、カヌーの側まできた4人は、転覆している
カヌーをひっくり返して起こそうと手をかけた。

「あれ、やけに重いなあ。」

いつもなら簡単にひっくり返るはずのカヌーが、妙に重かった。そこで号令をかけ、
一気に全員でひっくり返すことにした。「いいか、いくぞ・・・いっせーの!!!」
4人は、反動をつけて思い切りカヌーをひっくり返した。

「・・・うわあああああああ!!!!」

そこには――人間の、胴の、断面があった。上半身は、ない。

断面といっても、強引に引きちぎられたような無残なもので、下半身だけが、
カヌーの小さな操縦席におさまっている。残された胴には、わずかに臓器が
へばりついていたが、水で洗われたせいか、そのほとんどを失い、血の一滴もない。

チャプン、チャプン、と、カヌーごと揺れながら、それは水に濡れ、夏の陽に光っていた。
器のようにくぼんだその肌色の腹腔の内側に、血の気のない血管が網の目のように
走っているのが見てとれ、かえってそれが、非現実的な人体模型の内部のようだった。

カヌーが転覆した瞬間、水中の岩に頭が激突し、Oさんは意識を失い、そのまま
急流に押し流され、次々と岩が・・・頭をもがれ、腕をもがれ、肩を削られ、胴を
えぐりとられて・・・しまったのだろうか・・・。

誰もが、その受け入れがたい現実に呆然としていると、まっすぐに起こされた
カヌーが、再び水に乗って流れ出した。しかし、もう誰も動く事ができなかった。
放心状態で、ただ流れていく無人の、いや、胴体の下半身だけが乗っている
カヌーを見つめていた。いつしか、カヌーは視界のはるか下流に消えていった。

「その後、あらためて警察による捜索がなされたんだが、結局、そのカヌーも彼の
 下半身も、ついに見つからなかったんだよ・・・。」

そこまで語ると、そのSという管理人は、立ちつくすAさんに
背を向け、上流の方へゆっくりと歩み去って行った。


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