[天使]

アパートの部屋に戻って一服していると、ドアをノックする音がする。
・・・もう、こんな時間か。
ドアを開けると大家のオバサンが若い女を伴って立っていた。
「金子さん、悪いけど、また、なっちゃんをお風呂に連れて行ってくれる?」
「いいっすよ。それじゃあ、なっちゃん、俺と一緒に風呂に行こうか?」
築40年以上のそのアパートには風呂がなかった。
最寄の銭湯まで歩いて10分ほど。
鼻歌を歌いながら歩いていた奈津子が俺の手を握ってくる。
手を握り返して顔を向けると、奈津子は童女のような笑顔を見せて握った手を振る。
半田 奈津子・・・彼女が今回の俺の仕事のターゲットだった。
 
『仕事』とは、要するに奈津子の拉致だった。
乗り気のしない俺は、一度はこの仕事をキャンセルした。
しかし、結局、シンさんの強い要請でこの仕事を請けることになったのだ。

半田 奈津子は20代女性。
家族構成は母親の半田 千津子と母一人、子一人。
彼女の戸籍に父親の名はない。
半田親子は奈津子の幼少の頃から、生活保護を受けながら、このボロアパートに住んでいた。
顔写真の奈津子は愛らしい顔立ちをしていたが、何処となく違和感を感じさせた。
資料によれば、奈津子は知能に少々問題があり、療育手帳も受けていた。
母親の千津子は日常生活に問題はないと言う話だったが、読み書きが殆ど出来ないと言う事だった。
病弱で寝たり起きたりの母親と知能障害を抱えた娘の世話をしていたのは、アパートの大家でもある某教団信者の女性だった。
半田親子も、母親が元気だった頃からその教団の信者だった。
娘の奈津子には、教団斡旋による韓国での結婚式の話が持ち上がっていた。
その地区を取り仕切る教団幹部の強い勧めと言うことだった。
確かに、問題の多い教団ではあった。
教団の布教方法や霊感商法、人身売買の疑いも囁かれる『合同結婚式』で韓国に渡った多数の日本人女性の失踪・・・
半田親子の入信の経緯も自由意志によるものだったのかは怪しい。
だが、社会の片隅に放置されていた親子に救いの手を伸ばす者は、その教団・信者だけだったのも事実だ。
家族の依頼による奪還ならまだしも、余りに理のない行為に思えた。
頭の弱い女一人を拉致するなど、半日もあれば済む仕事だろう。
誰の、どんな目的による依頼だかは知らないが、そこらのチンピラに金を握らせれば簡単に片が付く。
少なくともキムさんや、ましてやシンさんが手を下すべき類の仕事にはどうしても思えなかった。

再度、この仕事を要請してきたシンさんに、俺は「何故、俺なんですか?」と尋ねた。
「訳あって、任せられる者がいないんだ・・・何とかなりそうなのは君くらいしか思いつかなかった。
キムやマサには、この仕事は無理なんだよ・・・それに、色々と問題があってね」
シンさんは半田親子に付いての別のレポートを俺に渡した。
レポートによれば、シンさんたちは半田親子を20年以上に渉って監視し続けていたことになる。
レポートを読み進めるに従って、俺の背筋には冷たいものが走った。
レポートの内容が正確ならば、一見、人畜無害に見えるこの親子は恐るべき存在だった。
果たして、俺に勤まるのか?
キムさんがシンさんに促されて「どうしても無理なとき、少しでも危険を感じたら躊躇なく使うんだ」と言って、黒いヒップバッグを渡した。
中には油紙と新聞紙で厳重に梱包されたオートマチック拳銃と予備弾倉が入っていた。
・・・ありえねえ!・・・正直、俺は目の前に現われた物と、これを「使え」と言うキムさん達にドン引きしていた。
戸惑う俺に、銃の説明と一緒に、キムさんは半田親子が監視されるようになった経緯を話し始めた。
話はキムさんとマサさんの修行時代、呪術師として駆け出しだった頃に遡る。

ある時、シンさんの属する組織にある依頼が舞い込んだ。
それは、ある呪術師の抹殺だった。
その頃、複数の有力者に雇われた数グループの呪術師が、呪詛と呪詛返しを仕掛け合う『呪術戦』を繰り広げていた。
実際には、高い地位に上り詰め、権力の座に座るような強運の人物に対する『呪詛』を成功させるのは、ある一定の条件を満たさないと非常に困難だと言う事だ。

宿業や運気が下降局面に入った所で、マイナスの流れを加速させる形で行わないと呪詛の効果は現われないらしい。
呪詛によって滅ぼされる者は、ある意味、『運』や『功徳』を使い切って、滅びるべくして滅ぼされて行くのだ。
それ故に、天運を味方に付けている者、宿業や運気の上昇局面、絶頂期にある人物に呪詛を仕掛けて成功させることは難しい。

だが、その『呪術戦』は、権力闘争に勝利して絶頂期にあった、ある男の死によって一旦終息した。
古くからの日本の呪術師グループには、いくつかの不文律が存在するということだ。
例えば、国を導く重要人物を、権力闘争の為に『呪殺』することは基本的にしないらしい。
そこが、呪術師が『呪殺』を用いて権力闘争に積極的に加担し、国と民族を導く資質を持った『指導者』を根絶やしにして亡国を加速させた朝鮮との決定的な違いらしい。

続く