[人間の力]
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そこには、彼女の裂けそうな程大きく見開いた目が、俺を見ていた。
金魚のように口をパクパクさせて、こちらを見ている。

そうして彼女の体に目をやった。

彼女は自分の腹に包丁をつきたてていた。どこから持ってきたかわからないが、その冷たい凶器は彼女の腹の中にあった。
俺は彼女が握ったままのその凶器の手を引き剥がそうとした。
「いたいよ・・・いたい・・・」彼女は低くうめいた。

「なんでこんな事!」俺は半泣きになりながら、彼女の指を一本一本はがすように引き戻した。
包丁の柄にはりついているようにして離れない。そうしてなんとか指をひきはがした。
以前聞いた話だが、包丁で刺した傷は抜くと出血がひどくなるから、そのままにしておけという話を聞いた事があった。

俺はそう思って包丁をそのままにした。包丁は20センチ位ある柄の半分位まで、腹に斜めに刺さっていた。
「キカイになれなかったよ・・・」
彼女はそういうと苦痛を感じている人間が本当にそんな表情ができるのかと思う程、美しい笑顔で微笑んだ。
瞳には悲しそうな光があった。
大急ぎで彼女をベッドまで運んだ。そうして、ベッドルームにの入り口にある電話からフロントを呼んで、救急車を呼んでもらった。

ベッドに戻ると、彼女は体を痙攣させていた。もう俺の言葉も聞こえていないようだった。
何度も呼びかけると彼女はやっと、目を俺の方に向けた。ゆっくりと。
そうして口元で何かを言いたがっているのが判った。俺は耳を近づけて聞き取ろうとした。
俺の耳に、はっきりと聞こえてきた言葉、それは

「・・・・おとうさん・・・・」

そう言うと彼女は腹に刺さったままの包丁の柄を再び両手で握り締め、
最後の力を振り絞って更に深く自分の体に引き込んだ。

血と血と血。俺は一生忘れない。

ベッドに飛び散ったそれは、俺の視界を一瞬、赤く染めて、頬の上をつたった。血には匂いがあるのだ。鼻につくような冷たい匂い。
誰にもそれは流れている。そしてそれは俺の中にも流れていると思うと、ぞっとする。
彼女はもう気絶していた。意識は無かった。
俺は彼女の頭を抱きしめて、叫んでいた。わけのわからないことを必死で。
その後誰かが部屋に入ってきて、俺は彼女と一緒に病院まで搬送された。
救急車の中で彼女は応急処置を受けていたが、結局意識の戻らぬまま、明け方に死んだ。
続く