[くすぐる]
俺の母に最近起こった不思議な話。 
母の実家は、今は皆陸で働いているけれど、男は船乗りになる者が多かった。 
母は6人兄姉弟妹の次女で下から二番目。 
伯父さん達3人も若い頃は船に乗っていた。 
次男の毅伯父さんは結婚して直ぐに事故で奥さんを亡くし子供もいなかったので、船が港に入ると外国のお土産を沢山持って家に遊びに来た。 
ある時、伯父さんとテレビを見ていると、日本のタンカーが東南アジアで戦闘機に銃撃されたと言うニュースが流れて来た。 
この事件で乗員が被弾?して死んだか重傷を負った。 
その頃、伯父さんもタンカーに乗っていたので父や母もかなり心配な様子だった。 
伯父さんは「人間、死ぬときは死ぬ。海の上で事故に遭っても助かるときは助かるし、陸の上でほんの些細な事で命を落とす事もある。 
人の生き死には、人の力ではどうしようもない」と言った事を俺に語った。 
そんな話をしているうちに、人間は死んだらどうなるのか、魂や死後の世界はあるのかという話題になった。 
伯父さんは母の実家に伝わる、ある話を聞かせてくれた。 
祖母の父や兄達も船乗りだった。 
一度船に乗ると帰ってくるまで長い間音信は途絶え、航海は危険と隣り合わせだった。 
祖母は『勘』の働く人だったらしい。 
ある時、子供だった祖母は航海に出ようとする兄を泣いて引き止めたそうだ。 
兄は幼い祖母に言った。 
「兄ちゃんは必ず帰ってくるから心配するな。もし、船が沈んだとしても必ず帰ってくる。 
帰ってきたら、お前の足を『くすぐる』から、風呂と飯の用意をしてくれ。 
兄ちゃんが帰ってくるまで良い子にしているんだぞ」 
祖母の兄が出航して何ヶ月か経った。 
もうすぐ船が帰ってくる、そんなある日、祖母は誰かに呼ばれたような気がして布団の中で目が覚めたそうだ。 
そして、目が覚めた瞬間、布団の中で誰かに足の裏を「くすぐられた」のだと言うことだ。 
祖母は「兄ちゃんが帰ってきた」と、まだ真夜中だと言うのに、兄に言われた通りに、風呂と食事の用意をしようと床を抜け出した。 
  
床を抜け出して動き回る祖母を家の者が咎めると、祖母は「兄ちゃんが帰ってきたから、風呂と飯の支度をしないと」と答えた。 
普通なら「夢でも見たのだろう。早く寝なさい」とでも言うところだろうが、家の者皆が起き出して、仏間で仏壇に手を合わせたそうだ。 
元々網本だった祖母の実家では、海で亡くなった人が家族の足を「くすぐる」話が伝わっていた。 
祖母の父や兄たちも、俺の母や伯父達もこの話を聞いて育ったそうだ。 
明け方頃、祖母の家の戸を叩く音がした。 
兄の乗る船が沈んだ事を知らせる電報だった。 
幼い頃、タンカー事件をきっかけに初めて聞いたこの話を、俺は母からも、伯父や伯母からも繰り返し耳にした。 
田舎に行った折りに祖母にも聞いてみたが、祖母はこの話を余りしたがろうとはしなかった。 
やがて、俺も大人になり、この不思議な話も記憶の片隅に追いやられて行った。