[怪物「結」上]

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そんなことを考えながら角を曲がるまで背中に高野志穂の母親の視線を感じていた。
あの家は、違う。
チェーンのこともそうだが、エキドナの気配はない。根拠のない自信だが、エキド
ナの母親であればたぶん一度顔を見れば分かるはずだ。
さあこれからどうしよう。
地図をもう一度取り出して眺めると、ボールペンで丸をつけた部分は一見小さく見
えるが、現実にその場に立ってみるとかなり広いことに気づく。
住宅街であり、そこに建っている家だけでも二桁ではきかない。もう少し範囲を絞
れないだろうかと考えて頭をフル回転させるが、いかんせんあまり性能が良くない。
やむを得ず、カンでぶつかってみることにした。
それっぽい家(なにがそれっぽいのか基準が自分でも良く分からないが)の呼び鈴
を鳴らして回った。
表札に出ている子どもの名前を使おうかと考えたが、本人が居た場合話がややこし
くなると考え、「志穂さんはいますか?」と言って訪ねてみた。
するとたいていの家では母親が出て来て「志穂さんって、ひょっとして高野さんの
所のお嬢さんじゃないかしら」と言いながら、高野家の場所を口頭で教えてくれる。
そして私は「家を間違えてしまって済みません」と言いながら立ち去る。
なんの問題もない。
スムーズ過ぎて、なんの引っ掛かりもないことが逆に問題だった。
ドアにチェーンのある家も中にはあったが、エキドナがいるような気配は全く感じ
なかった。応対してくれる主婦もごくありふれた普通のおばさんばかりだ。
もっと突っ込んで、家の中でポルターガイスト現象が起こっていないかとか、家庭
内で子どもとなにか問題が起きていないかなどと聞いた方が良いのだろうか、と考
えたがどうしてもそれは出来そうになかった。クラスメートならともかく、初対面
の人間にそんな変なことを聞いて回るだけの図太い神経を私は持ち合わせていない
のだった。
日が暮れたころ、私は疲れ果ててコンクリート塀に背中をもたれさせていた。

駄目だ。なんの手掛かりも得られなかった。範囲が広すぎてどこまで回っていいの
かも分からない。慣れないことをしているせいか、身体が少し熱っぽくなってる気
もする。
「もう帰ろ」
そう呟いてヨロヨロと立ち上がる。
自転車のハンドルを握りながら、なにか別のアプローチを考えないといけないと思
う。どんな方法があるのか全く名案が浮かばないままで疲れた足を叱咤しながらペ
ダルを漕ぐ。
帰り道、日の落ちた住宅街にパトカーの赤い光が見えた。引き抜かれた電信柱のあ
る辺りだ。
ふと、この数日の間街で起こったおかしな出来事を警察は把握しているのだろうか
と考えた。
電信柱や並木が引き抜かれた事件は明らかに器物損壊だろう。当然犯人を捜してい
るはずだ。
もし私が、自分の知っている情報をすべて警察に伝えたらどうなるだろう。聞き込
みのプロである彼らが人海戦術であの円の中心の住宅街を回ったならば、恐らく半
日とかからずにエキドナを見つけ出せるはずだ。母親に殺意を抱く少女を。
でも駄目だ。警察はこんなことを信じない。取り合わない。それだけははっきりと
分かる。
私だって信じられないのだから。
街中のすべての怪現象が、たった一人の少女によって引き起こされているなんて。
パトカーの赤色灯と野次馬たちのざわめきを尻目に私はその道を避けて少し遠回り
しながら帰路に着いた。

家に着くと、母親が「ご飯は?」と聞いてきた。
心身ともに疲れているせいか食欲が湧かず、制服を脱ぎながら「あとで」と返事を
する。
なにか小言を言われたが、適当に聞き流した。まともに応対したくない気分だった。

続く