[怪物「転」]

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突然の電話にも関わらず彼女は私を懐かしがって、「電話より、今からウチ来る?」
と言ってくれた。
「すぐ行きます」と言って電話を切り、廊下から居間の方に向かって「ちょっと出
てくる」と大きな声で告げてから家を飛び出した。
生ぬるい空気が夜のしじまを埋めている。一日、熱エネルギーを吸収したアスファ
ルトがまだ冷めないのだ。
自転車に乗って、住宅街の路地を急ぐ。
街灯がぽつんとある暗い一角に差し掛かった時、コンクリート塀の傍らに設置され
ている公衆電話が目に入った。
何故か昔から苦手なのだ。
小さいころに「お化けの電話」という怪談が流行ったことがあり、ある9桁の番
号に公衆電話から掛けるとお化けの声が受話器から聞こえてくるという、他愛も
ない噂だったのだが、私は近所の男の子と一緒にこの公衆電話で試したことがあっ
た。
記憶が少し曖昧なのだが、たしかその時はその男の子が「聞こえる」と言って泣き
出し、受話器をぶんどった私が耳をつけるとツーツーという音だけしか聞こえなか
ったにもかかわらず、その子が「だんだん大きくなってきてる」と喚いて電話ボッ
クスから飛び出してしまい、取り残された私も怖くなってきて逃げ出してしまった。
それ以来、この道を通る時には無意識にその電話ボックスから目を逸らしてしまう
のだ。
気味は悪かったが、今は何ごともなく通り過ぎて先を急ぐ。
先輩の家には15分ほどで着いた。
玄関先で待っていてくれたので、チャイムを鳴らすこともなく家に上げてもらう。

時計を見ると夜の9時を回っていたので「遅くに済みません」と恐縮すると、母親
が現在別居中で、父親は仕事でいつも遅くなるから全然ヘイキ、と笑って話すのだ
った。
兄弟姉妹もいないのでいつもこの時間は家に一人だという。
先輩の部屋に通されて、クッションをお尻に敷いてからどう話を切り出そうかと思
案していると、彼女は苦笑しながら私を非難した。
「同じ学校に入って来たのに、挨拶にも来ないんだから」
ちょっと驚いた。
中学時代の2コ上の先輩だったが、そういえば高校はどこに進学したのか知らなか
った。まさか同じ学校の3年生だったとは。
向こうは何度か学内で私らしき生徒を見かけたらしく、新入生だと知っていたよう
だった。
しばらく学校についての取りとめもない話をする。
正直、早く本題に入りたかったのだが先輩の話は脱線を繰り返している。ただひと
つ、「校内に一ヶ所だけ狭い範囲に雨が降る場所がある」という奇妙な噂話だけは
やけに気になったので、今度確かめてみようと密かに心に決める。
「で、聞きたいことってなに?」
先輩が麦茶を台所から持ってきて、それぞれのコップに注ぐ。
ポルターガイスト現象のことだとストレートに告げた。
先輩は目を丸くして、「ピュウ」と口笛を吹く。
「あれ? あなたにはあんまり話してなかったっけ?」
いや、聞きました。耳にタコができるくらい聞かされました。

先輩が小学校4年生くらいのころ、家の中でおかしなことが立て続いて起こったそ
うだ。例えば食器が棚から勝手に飛び出し地面に落ちて割れたり、窓のカーテンが
風もないのにまくれ上がったり、部屋のどこからともなく何かがはじけるような音
が断続的に響いたり、ある時など家族の目の前で花瓶に挿していた花がフワフワと
宙に浮き始め、いきなり凄い勢いで天井に叩きつけられたこともあったらしい。
それが数日置きに何週間も続き、ある時パタリと止んだかと思うとまたしばらくし
て急に起こり始める。困惑した両親はついに有名な祈祷師を紹介してもらい、家の
お払いをしてもらった。
その後、物が動いたりといったことはなくなり、何かがはじけるような物音や屋根
裏を誰かが這っているような音は時々あったそうだが、やがてそれも起こらなくな
った。
今お邪魔しているこの家でのことだ。
思わず部屋の天井の辺りを見上げたが、特になにも感じる所はなかった。
「聞きたいのは、石が降ってきたことがあったかどうかです」
「石? 家の中に?」
「家の外でもいいですけど」
先輩は記憶を辿るような視線の動きを見せた後、「なかったと思う」と言った。
「じゃあ石じゃなくてもいいですけど、家の中になかったはずのものがどこからと
 もなく現われたりしたことは?」
「……お皿とか果物とか色々飛んだり落ちたりしてたけど、全部家にあったものだ
 からなあ。ないモノが出てくるって、なんか凄いね。サイババみたい」
先輩は面白がって、最近テレビで見たというサティア・サイ・ババのアポート(物
品引き寄せ)について喋りだす。
「こんなしてさ、手のひらぐるぐる振ってから、出しちゃうのよ」
テーブルの上にあった鋏を手に持ってその様子を実演してみせてくれる。
私は少しがっかりした。

続く