[古い家]
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師匠は部屋の隅の、押入れの跡に光を向ける。
取り外されたのか、襖もない。ただ部屋にぽっかりと開いた穴のような空間だった。
まだ呻き声は続いている。
しかも明らかに近くなったようだ。
師匠が押入れの床をモゾモゾと撫で回していたかと思うと、ズズズ……という木が
擦れるような音とともに、目に見えない空気の流れが顔に押し寄せてきた。
師匠が僕の方を振り返る。
そして押入れの床を明かりで照らす。光はある一点で吸い込まれるように消えている。
そこには隠し板の蓋を外された穴があった。大きさは人が優に入り込めるほどのもの。
師匠の身振りに近くへ寄った僕は、その穴の中を恐る恐る覗き込んだ。
そこには、地下へ伸びる木製の階段があった。
空気が吹き上がってくる。
    うううううう
…………
空洞を抜ける風の音。
これが唸り声の正体か。
ごくりと唾を飲み込む僕に、師匠が囁く。
目を爛々と輝かせて、「さあ、行こうか」と。


僕は思い出していた。
父方の祖父の家にある古い土蔵。その奥に地下へ伸びる隠された階段がある。その
下には秘密の部屋があり、巨大な壷が置いてあった。子どものころ、父に連れられ
てその階段を降りる時の、あの、気づかないほどゆるやかに少しずつ自分が死んで
いくような感覚。いたずらを叱られた僕は、父にその壷の中へ押し込められるのだ。

壷はあんまり静かに立っているので座っているように見える、と言ったのは誰だっ
たか…… どちらにしても黄色い照明が照らす地の底で一人きり壷に呑み込まれた
僕は身を丸め、重い石でそらに蓋をされるのを見ていることしかできない。そうし
て一切の明かりのない世界に閉じ込められた僕は、遠ざかっていく足音を聞く。そ
れからやがて、自分のいる場所が地の底とは思えなくなってくる。もっと下が、あ
るような気がしてくるのだ。


「どうした」
と呼ばれ、我に返る。
師匠が懐中電灯を下に向けながら、ソロソロと足を階段に掛けていく。僕もそれに
続く。
ギイ、ギイ、と古い木が軋む音。2階から1階に降りる階段とは違う。たとえ外が
見えない建物の中でも、地中へ入っていく階段は確かにそれと分かる。皮膚感覚で。
あるいは臓器で。
階段は急だ。1段1段が物凄く高く、また足を置く踏み面も狭い。下を見ると、ほ
とんど垂直に降りているような錯覚さえ抱く。
足を滑らせたら、大変だ。
そう思って慎重に一歩一歩進めていく。
すぐに壁に突き当たる。右側に開いた空間に回りこむとまた下に伸びる階段が続い
ている。ただの折り返しだ。
「地下で醤油でも寝かせてるのかな」
師匠が呟いたが、そうは思えない。醤油が湿気の多い地下で保存するのに適したも
のとは思えないし、なにより入り口が押入れに隠されていたというのが不穏当だ。
地下から吹き上がってくる微かな風が、頬に触れる。

黴臭い匂いが鼻につく。
すぐにまた壁に突き当たった。師匠がゆっくりと明かりを右側へ向けていく。
「おい」
という声。
僕もそこに並ぶと、下に伸びる階段が目に入る。
まだ下があるぞ。と師匠が呟く。
懐中電灯に照らされる下には、また同じような漆喰の壁が光を反射している。そし
てまったく同じように右側の空間が光を吸い込んでいる。
「どこまで地下があるんだ」
僕らはその階段を降りていった。ギイギイという木の音と、風の音。薄汚れた漆喰
の壁と、またくるりと折り返されて続く道。
2回。3回。4回。5回。6回。
折り返しの数を数えていた僕は、頭の中に虫が飛ぶような奇妙な雑音が入ってだん
だんと次の数字が分からなくなる。
7回。8回。9回。次は10回だ。10回。10回だ。ああ。また階段が。これで
11回だから次で。いや、今ので10回じゃなかったか。次で……
先へ進む師匠が、急に足を止めた。
天井に懐中電灯を向ける。
「煤だ」
天井と言っても、それは低く斜めになって下へ伸びる木製の天板。僕らが降りてき
た階段の底板が、その下の階の天板になっているのだろう。その天井一面が、薄っ
すらと黒くくすんで見える。
「気づかなかったけど、足元も煤でいっぱいだ」
頭の中に、蝋燭を持ってこの階段を降りる人間のシルエットが浮かんだ。いったい
どれほどの長い時間、この地下への階段が使われていたのか。
師匠が身体を屈めて踏み面を凝視する。

続く