[旅館]
前頁

脱衣場を出ると、廊下は照明が落とされて薄暗くなっていた。
そう言えば十時で消灯すると言われた気がする。
左手に自動販売機コーナーの明かりが見えていて、人の気配がした。
俺も何か買って部屋に戻ろうかとぼんやりそちらを眺めていたら、見知った顔が覗いた。
「あれ?ナオ?」
美保だった。近くまで行くと、奥で一番下の従妹・桜がジュースを選んでいる。
「二人だけ?亜矢ねえは?」
俺は胸騒ぎがした。部屋が嫌だと言った亜矢ねえが、一人で部屋に残っているのか。
美保の返事を待たずに、俺は階段を小走りに上がった。
奥の部屋へ行き、ドアをノックする。

「亜矢ちゃん?亜矢ねえ?いる!?」
すると扉の向こうで、ぺたぺたぺた…と癖のある足音がした。
俺の名前を呼ぶ声がして、ドアが開く。亜矢ねえは怪訝な顔でこちらを見た。
騒ぎを聞き付けてやって来た智宏達と共に部屋に入り、
訊ねてみれば本人はまるで暢気な様子で、
見たいTV番組の途中だったから買い物に行かなかった、と話した。
話している間も、そちらに気を取られてくすくす笑っていた位だ。
何だったんだ?心配して損した。てか、この人の霊感はあてにならないな…と思った。
そこへ美保と桜が帰って来た。
美保は厭な表情をしていた。俺がどうした?と言いかけると…
「見ちゃった。」とだけ答えた。

翌日昼間によく聞いてみると、俺が上がって行った後に廊下の角に出た美保は、
何の気なしに本館の方を見たらしい。
目の前は玄関ホールで、そこの照明も薄暗くなっていた。
向こうに真っ暗な廊下と大階段が見えていて、
館内図で見ると下は宴会場、上は客室だった筈だ。
玄関の正面、フロントに当たる帳場の横から奥には、
俺達が泊まっているのと同じ構造の、階段上の部屋がある廊下が続いている。
ここも真っ暗で、玄関からの明かりと非常灯で何となく奥行が分かる程度だった。
その暗がりをすうっと音もなく、人影が近付いて来るのが見えたと言う。
奥からやって来て、美保がいる角を逆に折れ、本館の暗闇に吸い込まれて行く。

足音がしない。
気持ち悪い…と思ったら。
また同じ様にすう…っと人影が通った。
同じルート。廊下の奥から現れて、本館の廊下に消える。
桜を引っぱって部屋に戻るまでに、三度それが通ったと言う。
「着物で日本髪の女の人。三回とも同じ人だと思う。
目が合うとヤバい気がしてはっきりとは見なかったんだけど、顔が…」
言いながら、美保は顔の左側を押さえた。
「すぐ横を通る時、向こう側が崩れてるみたいに見えたんだ。何か凄いゾ−ッとして、
兎に角サクが怖がらない様にって、平気な顔して帰ったんだよ。」
結局、亜矢ねえはそこに行かずに済んでいたのだ。

その後、美保にもその周辺にも何か起こった訳ではないので、
廊下を回り続けていた女性は、ずっと同じ場所にいるモノなのかも知れない。

余談だが、その年だったか翌年だったかに稲川淳二の怪談ライブに行ったら、
舞台セットが遊廓を模した物だった。
それは何だか俺達が泊まった部屋に似ていて、今更ながら違和感の正体に気が付いた。
確証がある訳ではないが、あれはもしかしたら、その昔遊女がいた施設ではないのか。
街道の要所で大きな宿場町だったが、鉄道が引かれた際、
あるいは修繕した際に、駅が宿場から大きくずれてしまった町。
時代の流れで、今は普通の旅館に姿を変えている所だってあるだろう。
あの旅館がそうなのかどうかは確認出来ないが、そうだとしたら、納得が行く。

多分美保が見た女性は、ずっとそこで働いているのだ。
今日、今もいるのか、それは分からないけれど。


次の話

Part192menu
top