[姪と人形]
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中央に銅鏡のようなものが有って、その前に黄色い稲の穂のようなものがあったそうだ
そして、そのさらに奥、左手に一段低い台、というか棚の様ものがあったそうだ
その棚に、20体ばかりの人形が飾ってあったそうである
顔の造りはまちまちで、中には御河童頭の男の子の人形もある
しかし何れも着物を着ていて、今にして思えば、何となくだか、昭和の初期か大正くらいのものではなかったか、そう言っていた
確かにあの人形も、オレの祖母の家あったものと同じ、大正時代か昭和の初期の作、顔は少し扁平だか、何やら気品のある顔立ちだ
作りも今の人形より精巧なような気がする
勿論、オレはその辺りのことは素人なのだか。
後で知った事だが、人形というのは、着物をめくると、腹の部分に、その作者の名前が書いてある事が多いそうな
それを知っていれば、あるいは何かの手掛かりにはなったかも知れない
義兄の話に戻す
あの人形、顔の作りも、着物の柄も、あの時、棚の一番上の、端にあった人形によくにてると。
義兄の年齢から考えると、当時の件は昭和の40年代も半ばの頃だろう
当時の日本の農村には、まだ肥壷なんてものが当然あった
あれ、深さが二メートル近くあって、けっこう深いんだ
大抵は、木の蓋がしてあるのだが、中には蓋もして無く、表面がカパカパに乾いていて、まわりの地面と区別がつかなかったりする
だから、神社からその子の家までの経路、そんな所にも捜査が加えられた
しかし、その子の行方は杳として知れなかった
よく憶えてくれていたと思う、当時の事を
一因として、義兄は、オレと同じメモ魔だったから
一方は、それを武器にして出世したが、また一方は、それがアダとなり、離婚、退職(オレ様)した
話の本筋とは違う、オレの愚痴。
とまれ、話は人形に戻る
その社の人形を見たとき、神主が大雑把に説明してくれたそうだ
その人形の由来を。
神主の話によると、大正の終わり頃、先代の神主の時に、この村でコレラが流行ったそうである
現代の日本では発生も稀だし、症状も軽くに抑えられるが
当時、村、と呼ばれていたこの地域の医療技術や、衛生観念がどの程度のものだったのか。
体力のある壮健な男女は治癒したそうだが、結果的に幼い子供や老人にかなりの死者が出たそうである。
1ヶ月程で流行は下火となったが、その盛りの時に、先代神主が、疫病、災厄除けを、かの神社に祈願したそうである
村中総出のことで、歩ける村人は皆集まったらしい
その時に、既に亡くなってしまった子供らの人形も供養して神社に納める事になったらしい。
つまりその人形達は、その時に亡くなった、全ての子供らの依代みたいなものかも知れなかった
そんな人形を、姪は持ち出してきたのだ。
結局、その時の原因は井戸からと後になってわかったらしい
どこの家でも井戸に蓋がされ使われなくなり、かわりに脇に祠が建てられた
水質検査をして使用できるようになったのは戦後の事らしい。
その夜、姪の枕元にある人形を見ながら、寝床で考えた
でも、何故将来符なんだ
姪なりの供養の仕方なのか。
翌日、昼近くになって、オレ達は車で病院へ向かった
今日は甥と姪も一緒だ
病室に入っていくと、姉は半身を起こして出迎えてくれた、まず子供達が駆け寄っていく
姉は義兄の顔を見ると、少し驚いた顔をしたが嬉しそうだった
久し振りの親子四人の対面
オレは姉に、入院時の足りないものを聞くと、売店に降りて行った
姉に言われたものを買うと、この売店には本屋もある事に気がついた
少し時間を潰そうと思った。
なる程、病院には子供から老人まで、様々の人が入院している
絵本から盆栽の本まで小さいスペースながら、様々なジャンルがあった。
店内を物色している内に、ふと一冊の小誌に目がいった
おそらく自費出版に近いものだろう
装丁もただ厚紙にタイトルの、○○市郷土民族史、と印刷されただけのものだった、著者の欄には○○会とあった
その本を持ってレジに向かった。
続く