[雨音]
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当然そんなことを今の俺は覚えてはいない。
すべての人に聞いてみたい。
『はじめての雨はどうでしたか』と。
きっと誰も答えられない。誰もが体験したはずなのに。なんだか愉快だ。
もう一度、自分の記憶を探ってみる。
雨の匂いはいつも懐かしい。その懐かしさは、どこから来るのだろう。
とりとめもないことを考えていると、師匠の欠伸にふと現実に還る。
「来たぞ」
雨の筋に霞む道の先に、人影が現れた。
師匠は曇ったフロントガラスを袖で拭く。俺は目を凝らして前方を見つめる。
赤い傘が見えた。
続いてその傘の柄を持つ、女性の姿が浮かび上がって来る。表情まではわからな
い。30がらみだろうか。服の感じからそう思う。そしてなにか嫌な感じがした。
すぐにその嫌悪感の正体に気づく。
傘をさして歩く女性のすぐ後ろに、5,6歳の女の子がついて歩いている。桃色
の靴。黄色い帽子。雨さえ降っていなければ、ごく普通の母親とその子どもに見
えただろう。
だが、今は異様な光景だった。
傘をさす女性。その1メートル後ろを俯きながら歩く、傘を持たない子ども。
傘の下、寄り添うように歩いていればなんの違和感もないはず。たった1メートル
で、まるで此岸と彼岸だ。

「雨のせいか、鼻が利かない」
師匠はそう言って、食い入るようにそのふたりを見つめている。やがて車の横を
通り過ぎて、ふたりは再び雨の中に煙るように消えていく。
「あれは、生きている人間だと思うか」
俺に聞いている。
わからなかった。師匠にもわからなかったらしい。
もう姿は見えない。曇ったままのリアガラスを拭こうとシートを倒して手を伸ば
すけれど、その手は宙に惑うだけだった。
「母親も娘も生身。
 母親は生身、娘は霊。
 母親は霊、娘は生身。
 母親も娘も霊」
師匠があまり感情を交えずにそう呟いた。
どれも悲しい。
なぜか、ひどく悲しかった。
息が詰まり助手席の窓ガラスを少し下げる。
ザーッというきめ細かい雨音が車の中に入り込んで来た。ハザードランプのカッチ
カッチ、という時を刻む音が小さくなる。
音も、風景も、心も、何もかもが雨に降り込められている。こういう世界に、
なってしまったみたいだ。
はじめて体験する雨がいつかは止むなんて、その時知っていただろうか。
ふと、すべての人に聞いてみたくなった。


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