[田舎 中編]

そもそもの始まりは、大学1回生の秋に実に半端な長さの試験休みなるものがぽ
っこりと出現したことによる。
その休みに、随分久しかった母方の田舎への帰省旅行を思いついたのだが、それが
どういうわけか師匠、CoCoさん、京介さんという3人の先輩を引き連れての道ゆきと
なってしまった。
楽しみではあったが、そこはかとない不安がどんよりと道の先にあるのを俺は見て見
ぬ振りをしていたのだった。

駅まで迎えに来てくれた伯父の車は7人乗りだったが、助手席に伯父の家で飼って
いる柴犬が丸まって寝ていたので京介さんとCoCoさん、俺と師匠という並びでそれぞ
れ中部座席、後部座席に収まっていた。
俺としては、その柴犬がまだ生きていたことにまず驚いた。
耳の形に見覚えのある特徴があったので、その子供かと思ったのだが「リュウ」本人
なのだという。20歳は確実に超えているはずだ。伯父にリュウの歳を聞くと、「忘
れた」と言って笑うだけだった。
「こいつはドライブが好きでなあ、昔ゃよう連れてったもんじゃけんど、最近は全
 然出たがらんなっちょったがよ。今日は珍しい」
京介さんが頷きながら手を伸ばし、前の座席で寝そべっているリュウのお尻のあた
りを撫でる。リュウはちらっとだけ視線を向けて、また静かに目を閉じた。
車は快調に国道をとばしていた。
山間の道をひたすらに東へ進む。右手に川が現れて、ゴツゴツした巨大な岩が視界
に入ってはすぐに後方へ飛び去っていった。

「なんちゃあないろう」
何もないところだろう。
そういう伯父の言葉には変に飾ったところも、卑屈なところもなく、気持ちが良
かった。
CoCoさんが土地のことなどあれこれを聞き、京介さんもいつになく口が滑らかだった。
伯父が言った冗談に師匠がやたらウケて笑い声をあげ、その余韻で楽しそうに隣の
俺の肩を叩きながら顔を寄せて、表情とまったく違う冷めた調子で「ところで」と
言った。
「僕が今見ているものを、伝えてもいいか」
俺にしか聞こえないくらいの小さな囁き声に、いきなり冷水をかけられたような気
分になった。
日差しの強かったはずの窓の外が急に暗くなり、国道のすぐ横を流れている川は闇
に消えるように水面も見えなくなった。
そしてあたりから音が消え、車のフロントガラスの向こうには黒い霧が渦を巻いて
いる。
やがて川沿いのガードレールのあたりに、凍りついたような青白い人の顔がいくつも
並びはじめた。
暗くて首から下は見えない。顔だけがのっぺりと浮かび上がっている。男の顔もあ
れば女の顔もある。それも、大人が道路ぶちに立っているような高さのものもあれ
ば、その半分の高さのもの、はるか見上げるような位置にあるもの、地面に落ちて
いるもの、様々な顔が、しかしどれも無表情でこちらを見ているのだった。
そして無表情のまま、その顔たちはそれぞれ口を微かに開いている。
音もなく車の窓ガラス越しに視界は走り、手を伸ばせば届きそうな距離に、暗闇に
浮かぶ顔がまるで上下にうねる様な連続体となって見えた。それぞれの口の形は、
連続することによっていくつかの単語を脳裏に強制的に想起させようとしていた。

続く