[つんつるてん]

犬の散歩は、大変だと思う。早朝や夜遅くに散歩している人をよく見かける。
そのたびに、ついそんなことを考える。日中は仕事や学校だから、そういう時間帯に
なってしまうのだとは思うが・・・。おれも小さいころ、実家で犬を飼っていたが、
追いかけられた記憶しかない。本人はじゃれていたつもりだったのだろうが、おれに
はそれが恐怖だった。そして中学に上がり、犬にも慣れ始めたころ、飼っていた犬は
病死してしまった。
おれの通っている大学は、下宿先から自転車で15分くらいのところにある。いつ
も近道である川沿いの道を通る。その日も、実習が長引いて遅くなってしまった。
いつものように川沿いを自転車でこぐ。川沿いの道は、車両が一台やっと通れるくら
いの広さ。両岸とも自転車を除いて一方通行となっている。川といっても上水路とい
った感じで、幅はせいぜい10Mくらいしかない。おれは冬の寒さにこごえながら、
家路を急いだ。
 橋にさしかかったとき、人影がみえた。こちらに背を向けてじっと立っている。
犬の散歩中らしく、手づなを引いて、犬が用を足し終えるのを待っている。
「こんな寒い中、大変だな」と思った。
ふと見ると、その人 ズボンの丈が合っていない。スネが丸見えで寒そうだ。紺の
ダウンジャケットを着て、ファー付きのフードを頭まで被っている。
その人の横を通り過ぎたときだった。
「わん。」

犬の声とも、人の声ともとれないような声。むしろ音だったのかもしれない。少し
驚いて、おれは振り向いた。
穴だった。黒い穴が三つ。そいつの顔であろう場所にぽっかりあいている。穴のよう
な目と、穴のような口・・・。背筋に悪寒が走った。猛スピードで自転車をこいだ。川沿
いをひたすら走り、一つの橋を超え、二つ目の橋を超え・・・何か嫌な予感がした。振り
返ると、追いかけてきている。距離は遠のいたが、そのまま夢中でペダルをこいだ。アパ
ートに着くころには、そいつはいなくなっていた。
 
次の日、大学の友人に昨晩の出来事を話した。
「そりゃあお前、つんつるてんだよ。」
「つんつるてん?」
妖怪のたぐいかと思ったが、どうも違うらしい。友人が言うには、ズボンの丈が合わず
にスネが丸見えのことを、つんつるてんというらしい。単なる見間違いだ、と軽くあし
らわれた。
 その次の夜だった。そいつはまた現れた。実習で遅くなり、川沿いを帰っていたとき
・・・そいつは同じ場所、同じ格好で立っていた。ズボンの丈が合っていない・・・
「わん」
そいつから逃げるために、思い切りペダルをこいだ。幸いヤツはぼくの自転車について
これない。
「わん。わん。わん。」
犬のような、人のような。低い男の声。逃げ切るまで止むことはなかった。

そんなことがあってからというもの、おれは川沿いの道を通らなくなった。ある日、
前に話した友人といっしょに帰ることになった。彼も同じアパートで、帰る方向は同じ
である。「近道を通ろう」と言い出し、イヤイヤ川沿いの道を行く羽目になった。
「ここの道、あいつが出るから嫌なんだよ。」
「ああ、例のつんつるてんか。何かされたのか?」
「いや・・・追いかけられただけだけど」
友人が居たせいなのか、一人でないと現れないのか、あいつは姿を現すことはなかった。

 数日後の夜のことだった。
続く