[別れた女]
前頁
窓の真向かい、細い路地の電柱にもたれるようにして彼女は座り込んで窓を見上げていました。 
私を見つめて微笑みます。 
おはよう、と口が動くのが見えました。 
開けた時と同じ勢いでカーテンを閉めました。 
面倒な事になった。溜息を付かずにはいられません。 
気付かれないように外を見ると、彼女は座り込んだままコチラを見上げていました。 
うちには1週間ほどの食料の貯えがあります。 
彼女だって飲まず食わずでトイレにも行かずにいる訳にはいかないでしょう。 
隙をみて部屋を出て、当分友達の家を回る計画を立てて荷物を纏めました。 
しかし彼女は動きません。 
もしかしたら丁度私が覗いていない時に用を済ませているのかもしれませんが、 
見ている間はずっとそこに居ました。 
4日目の夜。 
彼女の姿がありませんでした。 
私は嬉々として部屋を出ようとドアを見て背筋が凍りました。 
新聞受けが奇妙な形で開いています。 
造りが新聞を受け取る程度にしか開かなかったのが幸いです。 
90度開くタイプだったら、私はそこに彼女の目を見ていたでしょう。 
もっと開けようと指がもがくのも見えました。 
「ねえ、入れてよ。話をしようよ。あんなに愛し合ったじゃない。もう一度話をしようよ。」 
脳裏に浮かんだのは長年見てきた笑顔ではなく、先日の恐ろしい形相です。 
私は布団を頭から被り、みっとも無いほど震えていました。 
それでも何時しか眠ってしまったようです。 
恐る恐る布団から顔を出して音を立てないようにドアの様子を伺いました。 
新聞受けから赤い筋がいくつも垂れていました。 
カタン、と鉄の板が小さく開いて何かが投げ込まれました。 
赤い筋がひとつ増えます。 
それが何なのか理解できると同時に警察に電話を入れました。 
肉片でした。 
彼女は小さくなって部屋に入って来るつもりなのです。 
ほどなくして部屋の外が騒がしくなり、男性の「救急車!」という叫び声が聞こえました。 
サイレンの音が聞こえて騒がしさが増し、少しして 
開けて下さい、という男性の声に扉を開けました。 
本当は開けたくありませんでしたが、男性は警察でしょうから仕方がなかったのです。 
私の部屋のドアも床も真っ赤になっていました。 
彼女の姿はありません。 
既に救急車に運ばれていて、警察の方の配慮で会わないようにしてくれたようです。 
発見した時、彼女は自分の指を食いちぎっていたそうです。 
部屋はすぐに引き払いました。 
新しい住まいは新聞や郵便物が建物の入り口にあるポストに入れるようになっている所を選びました。 
引っ越した当初はカーテンを開けるたびに嫌な汗をかいたものです。 
あの事件から数ヵ月後、彼女が自殺したと風の便りで聞きました。 
ほっとしました。 
悪いとは思いましたが安堵の気持ちが強かったのです。 
いつしか私の気持ちも落ち着き、暫くして新しい彼女ができました。 
その頃からです。 
カタン、ぽとん、カタン。 
不規則な音が聞こえるようになりました。 
音は玄関の扉の方からします。 
カタン、ぽとん、カタン。 
別な所に越しても音は付いてきます。 
ノイローゼ気味になり、彼女とは別れました。 
そうすると音が止んだのです。 
また時間が経って、あれは気のせいだと思い始めた頃に女性と付き合う事になりました。 
カタン、ぽとん、カタン。 
カタン、ぽとん、カタン。 
私は今ひとりです。 
結婚は一生できないでしょう。 
いや・・・厳密に言えば、私は一生一人になる事ができなくなったのです。 
彼女が扉の前で自分を小さくし続けているのですから。