[腹話術師]

これは日本の話ではないけれど…、
とある地方の小さな街に、寂しい一人暮らしの女性がいました。
楽しみといえば、週末の夜に訪ねる小劇場での芝居見物でした。
そんなある日、芝居の幕間にある余興が入ったのでした。
ハンサムな腹話術師が椅子に座り、膝の上に乗せた人形と
馬鹿ばなしをする…よくある、何の変哲もない腹話術です。
しかしハンサムなだけではない、なんと美しい声なのだろう…と、
ひと目みて彼女は、その腹話術師に恋をしたのでした。
次の週末も、また次の週末の夜にも、その腹話術の余興はあり、
彼女の恋心はつのっていくばかりました。

意を決した彼女は、ある夜、余興が終わり幕が降りた後、
楽屋を訪ねてみようと思い、行動に移しました。
しかし楽屋を訪ねた彼女に、扉の向こうから聞こえてきたのは、
「残念ですが、お会いする気持ちはありません」という
彼からの冷たい返事でした。彼女はとても残念に思いながら
その夜は諦め、すごすごと楽屋を後にしました。
憧れの人と一対一で過ごしたい…彼女の願いはかないませんでしたが、
その夜限りで諦めてしまうことはなかったのです。

一ヶ月ほど経った夜、彼女は一房の花を買って小劇場を訪れました。
幕間にはじまった、いつもの腹話術師の美声におもわず涙しました。
余興が終わり、幕が降りると彼女は席を立ち、楽屋を訪ねました。
こんどは、もし合うことがかなわなくても、
花束を扉の外に置いて帰るつもりでいました。
そんな彼女の強い想いが通じたのでしょうか、
「では、お入りください」という嬉しい返事が、
扉の向こうから聞こえてきました。
ドアを開けて入ると、まるで、腹話術の舞台そのもののような演出。
奥の壁の前に椅子が置かれ、ハンサムな腹話術師が座り、
膝の上には人形が置かれていました。
スポットライトだけが灯っていて、「彼」と人形、そして椅子を
暗闇の中にくっきりと浮かびあがらせていました。

胸をどきどきさせながら、彼女が、
「はじめまして…」と呼びかけた時でした。
突然、椅子の上から何かが倒れました…、
椅子の上には「人形」だけが残っていました。
じっと彼女を見つめ、「分かったね…」というようにうなづき、
寂しげに、彼女に笑いかけたのでした。

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