[声]
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ドアの下の隙間からは明かりも漏れておらず、中は無人のようだったが、ビクビ
クしながらドアに耳をくっつけてみる。
なにも聞こえない。
地続きになっている遠くの部屋で誰かが飛び跳ねているような振動をかすかに
感じるだけだった。
頭をドアから離すと、無駄と知りつつノブを握った。
カチャっと音がして、わずかにドアが動いた。
驚いて思わず飛びずさる。
開く。
カギが掛かっていない。
このドアは開く。
後ずさる俺に合わせて女性も壁際まで下がっている。
心音が落ち着くまで待ってから「どうします」と小声で言うと、彼女は首を横に
振った。
おびえているのだろうか。
しかし去ろうともしない。

俺はなにか義務感のようなものに駆られて、ふたたびドアへ近づく。
ノブに手をかけて、深呼吸をする。
あの悲鳴を聞いたときの、心臓が冷えるような感覚が蘇って、生唾を飲んだ。
このドアの向こうに、悲鳴の主か、あるいは関係する何かがある。そう思うだ
けで足が竦みそうになる。
「開けますよ」
と彼女に確認するように言った。でもそれはきっと自分自身に向けた言葉なの
だろう。
目をつぶってノブを引いた。
いや、つぶったつもりだった。しかしなぜか俺は目を開けたままドアを開け放
っていた。
吸い込まれそうな闇があり、その瞬間彼女が俺の背後で「キャーッ!!」という
絶叫を上げたのだった。
寿命が確実に縮むような衝撃を受けて、俺はそれでもドアノブを離さなかった。
室内は暗く、何も見えない。
暗さに慣れたはずの目にも見えないのに。
一体彼女は何に叫んだのか。
じっと闇を見つめた。
中に入ろうとするが、磁場のようなものに体が拒否されているように動けない。
いや、たんにビビッていただけなのだろう。
俺はしばらくそのままの姿勢でいたが、やがて首だけを巡らせて後ろを向こうと
した。
一体彼女は何に叫んだのか。
そのとき、あることに気がついた。
この廊下の一角は、あまりに静かだった。
やってきたときと変わらずに。
さっきの彼女の叫び声に、このサークル棟の誰も、様子を見に来ない。

中途半端な位置で止まった頭の、その視線の端で彼女が壁際に立っているのが
見える。
しかしその姿が、薄闇の中に混じるように希薄になって行き、俺の視界の中で
音も無く、さっきまで人だったものが、「気配」になって行こうとしていた。
ドアの向こうの闇から、なにか目に見えない手のようなものが伸びてくるイメー
ジが頭に浮かび、俺はドアノブから手を離して逃げた。
背後でドアが閉じる音が聞こえ、彼女の気配がその中へ消えていったような気
がした。

自分の部室に戻ると、みんなさっきと同じ格好で同じことをしていた。
胸を押さえて座り込むと、師匠が薄目を開けて「無視しろって言ったのに」と呟
いてまた寝はじめた。マリオはタイムオーバーで死んでいた。
その後、ときどきあのサークル棟の端の一角を気にして、通りすがりに廊下から
覗き込むことがあった。
昼間は何事もないが、ひとけのない夜には、あのドアの前のあたりに人影のよう
なものを見ることがあった。
しかし大学を卒業するまでもう二度と近づくことはなかった。


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