[海]
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ここで?
俺は無理だ。俺や師匠の部屋ならいい。いや、あえていえば普通の心霊
スポットで、くらいなら大丈夫だ。
しかしここは、陸地から離れて波間に漂うここは、海面より上も下も人間の
領域ではないという皮膚感覚があった。
三界に家無し、という単語がなぜか頭に浮かび、頼るもののない心細さが
猛烈に襲ってきた。なにかが気まぐれにこの小さな船をひっくり返しても、
この世はそれを許すような、そんな意味不明の悪寒がする。そんなことを
考えながら船のヘリを渾身の力で掴んだ。
そんな俺にかまわず、師匠はガチャリとボタンを押し込んだ。

思わず耳を塞ぐ。
バランスが崩れないよう、足を広げて踏ん張ったまま俺の世界からは音が
消えて、テレコの前に屈みこんだままの師匠が、停止ボタンを押された
ように動かなくなった。
俺はその姿から目を離せなかった。
胸がつまるような潮の生臭さ。
板子一枚下は地獄。
ああ、漁師にとってのあの世は海なんだな、と思った。
波に合わせて揺れる師匠の肩口に人影のようなものが見えた。
ふたたび、海に立つ影が船のすぐ真横を横切ろうとしていた。
顔などは見えない。どこが手で、足でという輪郭すらはっきりわからない。
ただそれが人影であるということだけがわかるのだった。
師匠がそちらを向いたかと思うと、いきなり何事か怒鳴りつけて船から
半身を乗り出した。凄い剣幕だった。船が一瞬傾いて、反射的に俺は逆方向
に体を傾ける。
人影は立ったまま闇の中へ消えていこうとしていた。
師匠は乗り出していた体を引っ込め、船尾のモーターに取り付いた。俺は
バランスを崩し、思わず耳を塞いでいた両手を船の縁につく。
なんだあれ、なんだあれ。
師匠は上気した声でまくしたて、エンジンをかけようとしていた。
回頭して戻る気だ。
そう思った俺は、その手にしがみついて、ダメです帰りましょうと叫んだ。
師匠は俺を振りほどいて、言った。
「あたりまえだ、つかまってろ」
すぐにエンジンの大きな音が響き、船は急加速で動き始めた。
塩辛い飛沫が顔にかかるなかで俺は眼鏡を乱暴に拭きながら、かすかに見える
灯台の光を追いかける。
後ろを振り返る勇気は、なかった。
後日、師匠があのときの録音テープを聞かせてやる、と言った。
結局俺はまだ聞いてなかったのだ。喉元すぎれば、というやつでノコノコと
師匠の部屋へ行った。
「ありえないのが採れてるから」
そんなことを言われては、聞かざるを得ない。
テーブルの上にラジカセを置いて再生ボタンを押すと、くぐもったような
波の音と風の音が遠くから響いてくる。
耳を近づけて聞いていると、そのなかに混じってなにか別の音が入っている
ような気がした。
ボリュームを上げてみると確かに聞こえる。
ざあざあでもごうごうでもない、なにか規則正しい音の繋がり。それが延々と
繰り返されている。もっとボリュームを上げると、音が割れはじめて逆に
聞こえない。上手く調整しながらひたすら耳を傾けていると、それは二つ
の単語で出来ていることがわかった。人の声とも、自然の音ともとれる
なんとも言えない響き。
その単語を聞き取れた瞬間、俺は思わず腰を浮かせて息をのんだ。
それは紛れもなく、俺と師匠の名前だった。


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