[シミ]
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私は即座に引っ越しを決意しました。大学の近くにある不動産屋に駆け込んで
探してもらうと、ちょうど最近空きが出たアパートがあるとのことで、その日
のうちに見に行き、契約を行いました。何がなんでも即座に引っ越したいとい
う私の要望を大家さんは聞き入れてくださり、一両日中に引っ越し作業を行う
ことになりました。その夜は、その部屋で寝るなんてことは私には不可能です
から、駅前のビジネスホテルに泊まりました。

地元の引っ越し業者にも無理を言ったかいがあって、翌日には引っ越し作業を
行うことができました。業者の若い方二人と一緒に二度と戻りたくなかったそ
の部屋に再び入り、できるだけ天井のシミは見ないようにして、決して多くは
ない私の荷物を3時間程度で運び出し、最後に天井に目を向けました。

シミ、というよりそれはもう顔の写真のようになりつつありました。それはま
すますはっきりとしており、唇の赤黒さすら分かる状態になっていました。

そして、閉じていた目はうっすらと開こうとしていました。

私は二度とその部屋には近づくまいと考え、以前よりせまくなった新しい住居
(こちらも古いことには変わりはありませんでした)と大学を往復して暮らし
ていましたが、そのうち私の中で、あのシミがその後どうなっているのかをど
うしても確かめたい気持ちが強くわき上がってきました。

新しい住居から大学へ向かうもっとも近い道を少しだけ迂回すると例の官舎が
あり、通り過ぎながら例の部屋をのぞき見ることができます。

4日ほど前、ついに誘惑に勝てなくなった私は、出勤の途中でその道を通り抜
けました。道路からのぞきこんだ天井には、もはやシミではなく人間の顔面が
ありました。細かいところは分かりませんが、目は完全に見開いており、しか
も気のせいか、天井からその部分がふくらんでいるように見えます。それ以上
見ていることは私には不可能であり、気持ちの悪い汗をかき、全身の鳥肌を立
てながら、そそくさとその場を去りました。もう二度と来ないつもりでした。

そして昨日のこと。日曜日といっても特にすることのない私は、ぶらぶらと大
学へ出かけ、ちょっとした細かい仕事などを片付けていました。そのうち、心
の中にまたあの悪い欲求がわきだし、再び私はその場所へ向かいました。

天井の顔は完全に跡形もなくなっていました。天井はもとの白い姿に戻ってい
ました。二週間以上をかけてわき出してきたあの顔が3日にしてどのようにし
て消えたのか、私には分かりません。

しかし、気になったことがあります。退去する際、きちんとしめてあったはず
の押し入れが30センチ程度空いていたのです。

そこで起こっている何かはまだ終わってなどいないということを、私ははっき
りと認識しました。



次にそこに入居する人間が何を見るのか、私には分かりません。私はもっとも
伝えるべき相手であろう施設部の人間に話はしました。これ以上の責任は彼に
あります。私はこの件についてもう関わることはないでしょう。

新しい部屋の天井には、今のところシミ一つありません。


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