[坂]
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師匠も京介さんも押し黙ったまま、車は夜道を進んだ。
イライラしたように京介さんはハンドルを指で叩く。
やがて道が二手に分かれる場所に出た。
「左です」
という僕の声に、ウインカーも出さずにハンドルが切られる。
左に折れると、すぐに上り坂が始まった。
「どこ」
「ええと、たしかもうこの辺りからそのはずですが」
あくまで噂では。
京介さんは車を停止させると、ギアをニュートラルに入れた。
・・・
ドキドキするのも一瞬。じりじりと車は後退した。
京介さんはため息をついてブレーキを踏んだ。
「あー、ちょっと楽しみだったんだけどなぁ」
僕も残念だ。
たしかに本気でそんな坂があるなんて信じていたかと言われれば、
否だが。
すると師匠が「ライト消して」と言いながら、車を降りた。
手には懐中電灯。
3人とも車を降りると、周囲になんの明かりもない山道に突っ立っ
た。
「まあ多分こういうことだな」
と師匠はぼそぼそと話しはじめた。

この山中の坂道はゆるやかな上り坂になっているわけだが、道の先
を見ると路側帯の白線が微妙に曲がり、おそらく幅が途中から変わ
っているようだ。それが遠近感を狂わせて上り坂を下り坂に錯覚さ
せるのではないか。
周囲に傾斜を示すような比較物が少ない闇夜に、かすかな明かりに
照らされて浮かび上がった白線だけを見ていると、そんな感覚に陥
るのだろう。
師匠の言葉を聞くと、不思議なことにさっきまで上り坂だった道が
下向きの傾斜へと変化していくような気がするのだった。
「つまり、ハイビームでここを登ろうとする無粋なことをしなけれ
 ば、もう少し楽しめたんじゃない?」
師匠の挑発に、京介さんが鼻で笑う。
「あっそ。じゃあここで置いていくから、存分に錯覚を楽しんだら」
「言うねえ。四次元坂なんて信じちゃうかわいいオトナが」
虫の声が遠くから聞こえるだけの静かな道に、二人の罵りあう声だけ
が響く。
しかし、京介さんの次の言葉でその情景が一変した。
「どうでもいいけど、おまえ、後ろ振り向かないほうがいいよ。
 地蔵が来てるから」

零下100度の水をいきなり心臓に浴びせられたようなショックに襲
われた。
京介さんの子供じみた脅かしにではない。
その脅しを聞いた瞬間に、師匠が凄まじい形相で自分の背後を振り返っ
たからだ。
驚愕でも、恐怖でもない、なにかひどく温度の低い感情が張り付いた
ような表情で。
しかしもちろん、そこには闇が広がっているだけだった。
その様子を見た京介さんも息をのんで、用意していた嘲笑も固まった。
おいおい。笑うところだろ。騙された人を笑うところだろ。
そう思いながらも、夜気が針のように痛い。
「すまん」
と京介さんが謝り、なんとも後味悪く3人は車に戻った。
師匠は後部座席に沈み込み、一言も口を利かなかった。
そして僕らはくだんの地蔵の前を通ることもなく、県道を大回りして
帰途に着いたのだった。

師匠を駅前で降ろして、僕を送り届ける時に京介さんは頭を掻きなが
ら、「どうして謝っちまったんだ」と吐き捨てて、とんでもないスピ
ードでインプレッサを吹っ飛ばし、僕はその日一番の恐怖を味わった
のだった。


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