[眠り稲]
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――深夜、祖父は自分を呼ぶ声で目を覚ます。
目を開けると、徐々に輪郭を持ち始める闇の中に兄の顔が見えたという。
「なあ、面白い事考えたんじゃ」
一体何をこんな夜中に思い付いたのだろう。
「今からあの糞親父の田んぼ行って、案山子を引っこ抜いたるんじゃ、健次も来るか?」
祖父は余りに驚き、必死で首を振って拒否した。
「そうか、行かんか。それでもええんじゃ、けだし、大人達には俺じゃって事、ばらしてくれるなよ?」
祖父は頷いた。
兄は一人で行って来るのだろうか?
兄が部屋を出て行く気配を感じたのを最後に、また祖父は深い眠りに落ちて行った。

――翌朝。
何か悪い夢を見た気がする。
祖父は目を擦りながら家族が待つであろう一階へ降りた。
異様に静かだ。
というより、誰もいない。
祖父は嫌な予感がした。
兄が取っ捕まったのじゃないだろうか?
寝間着のまま急いでわらじを履いて外へ駆け出した。
田んぼ沿いの道を、走る。
やがて例の農家が近付くと、異様な人だかりが見えた。
嫌な予感はますます強まり、人だかりを必死でかき分けて祖父は田んぼを見たという。
――そこには、案山子があった。
いや、それは兄だった。
両足を田んぼの泥に突っ込み、両手をバランスでも取る様に水平にしている。
口からは涎が垂れ、目の焦点はあってない。
「兄やん……?」祖父はそう言うのがやっとだった。
家族は兄を家に引きずる様にして連れ帰り、深刻な顔で話始めた。
「眠り稲を起こしよったな…」
「あれは気が触れてしまってるのう…」
幼い祖父にはなんの事か分からない、結局祖父には何も分からないまま、その年は早く地元へ帰り、もう毎年兄の住む農村に帰る事はなくなったという。
「眠り稲を起こすな」
この言葉の真意を、祖父が知ったのは、兄の葬儀の為に最後に農村へ帰った時。
これが意味するのは、決して稲が穂を垂れても〜という事じゃない。
『草木も眠る丑三つ時、田んぼに行ってはならない』という村の暗黙の了解の様な物だったのだ。
丑三つ時の田んぼに行った兄、タブーを犯してしまった兄にあの夜何が起こったのかは分からない、もしかすると化け物に襲われたのかもしれない。
とにかく、人間には想像すらできない様な正体を持つ伝承は、日本のあちこちにひっそりと息を潜めているのだという(完)


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