[月の沸く沢]

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理科は苦手だったが、たしかにそんな力が存在することは知っている。
しかし・・・
潮汐力が最大になるのは満月の日だけだっただろうか?
おぼろげな記憶ではあるが、確か月の消えた「新月」の日にも潮汐力は
最大になるのではなかったか。
では、満月の日にだけ湧くというこの沢はいったい何だ?
師匠の目が爛々としている。
なにより師匠の目が、「潮汐力」という答えを否定しているようだった。
俺は得体の知れない寒気に襲われた。
チャポ という音を立てて、師匠が沢の水を掬っている。
飲む気だ。

師匠は掬い取った手の平に満月を見ただろうか。
一心不乱に水を飲みはじめた。何度も何度も手を差し入れて。
俺は立ち尽くしたままそれを見ている。
やがて信じられないものを俺は見て、ヘタヘタと座り込んだ。
気がつくと師匠の手が止まっていて、その下には水面が揺れている。
月が、もう映っていなかった。
消えた。
俺は逃げ出したくなる気持ちを抑え、この出来事に合理的な解釈を与え
ようとしていた。
『潮汐力だよ』
というそんな力強い言葉のような。
動けないでいると師匠が何事もなかったかのように歩み寄ってきて、
「もう月も飲んだし、帰ろう」といった。
その瞬間わかった。
へたりこんだまま空を見上げて、俺はバカバカしくなって笑った。
いつのまにか空は曇って、月は隠れていたのだ。
本当にバカバカしかった。
新月の謎さえ忘れていれば。

次の日、師匠があっさり教えてくれた。
「あのダムはね、30日ごとに試験放流をするんだ」
その周期と満月の周期とがたまたまかぶっているというのだ。
月の満ち欠けが一周するまでの期間を朔望月といい、平均するとおお
よそ29.53日。30日ごとの試験放流では一年間で6日ほどズレが
生じるはずだが、放流予定日が休日だった場合はその前日に前倒しする
ことになっており、その周期が朔望月に近づくのだという。
「でもぴったり満月の日にあの沢が湧くのはめずらしいらしいけどね」
力が抜けた。地下水の圧力変化の原因は潮汐力ですらなく、ただのダム
の放流だった。
ようするに担がれたわけだ。

しかし、あの夜起こったことの本当の意味を知った時にはもう、師匠は
いなかった。
数年後、師匠の謎の失踪のあとあの夜のことを思い出していて、まだ
ひとつだけ解けていない謎に気がついたのだ。
あの夜、俺と師匠は懐中電灯をしぼって沢に向かった。
月の湧くという沢に。
空はいつから曇っていたのか。

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